記憶の山

登山の記録と記憶 児童養護施設で働いています。その考察を記録しています。

プロ宣言のその後

2023年1月11日にプロの児童養護施設職員であることを宣言をした。
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それから何が変わったかというと、私生活上は大きな変化はなく、海と山が程近いのどかな町で妻と娘2人、愛犬と絵に描いたような家庭生活を送っている。

長女は妻に似てきたのか、人の枕を勝手に使うなとか、私が出た直後のトイレで用を足せば鼻をつまんで出てくるなど、順調に生物学的に父親を嫌悪する道を進んでいる。

そんな娘の幼稚園バスの迎えに同行し、娘と幼稚園バスの先生、子どもたちに一笑い作ろうものなら「他のパパを見習ってほしいもんだわ」と妻に言われ、砂糖に群がるアリを見るような瞳で夫を見つめているところからして、私のスタンスは一般社会とボタンをかけ違えた養育をしているのではと、最近薄々と感じている次第であり、どこか妻や娘が私を蔑む姿勢を崩さないところの原因を感じているのである。

とはいえ、軌道修正しようものならそれは私の人格に引っかかる部分でもあるため容易に行えるものではない。私が全裸で体重測定をしているのを妻に目撃されたことを娘が友達に嬉々として話していたことを先日知り、こんな阿呆な父でも根本は好いていると信じ、家庭生活を私なりエンジョイしようと日々を送っている。

話を戻し、私生活ではほとんど変化はないが、仕事では色々と変化が起きている。

まず、私が掲げるプロとは以下のことを基本としている。

1.対象者から逃げずニーズに最高のケアで応え続けていく
2.スポンサーメリットを理解し成果を上げていく
3.目標を掲げ達成し成長していく

以上に基づいて仕事をするようになると、児童養護施設や児童福祉の問題というものが、嫌でも見えるようになってくる。

「権利」「養護と養育」「予算」「法人」「採用」「既得権益」など、ひとつひとつが重く、児童福祉が抱えていた課題が矢のように降り注いでくる。これまで逃げるのは簡単だったが、もはや見てしまったので抗うことはできない事態に発展しているので、覚悟して臨む以外に道はない。

これらを解決するために動くため、八方美人でコーティングした様なこれまでの姿勢は崩れ落ち、職場では言い切ることが増えた。

発言には論拠が求められ、もちろんその言葉に納得する人ばかりではない。それはこれまで個人見解を伝えて上手い具合に予定調和を測ってきたが、組織や行政の方針という、私が最も苦手と構成単位を意識し、チーム一丸となって物事を進めるために、こだわりやエゴを取り払って発言することになったため、敵にする人の数は明らかに増えたと感じている。

敵=嫌悪するもの、ということではない。相対することで高め合い、目標に向かっていける存在である。
とはいえこっちも本気なのでイラッとするのだが、結果が良いものになれば、率直な議論は必要であり、そのための敵は歓迎したい。

そんな姿勢で仕事をしていたら、持ち時間である1日8時間は、私の全能力を以て効率化を図っているが足りず、最近欲しいものは何かと聞かれれば時間と答えるようになった。
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プロ発言をして以降、私の仕事ぶりを見た人から「死ぬなよ」と言われたことがある。妻からは原因は定かではない白髪の爆発的な増加をストレスと懸念され、健康診断は見事に引っかかり再検査を推奨されるなど、自分の危うさを客観的に指摘してくださる方も増えたが、止まったら本当に死んでしまいそうなので、今は止まらないようにしている。
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私はプロ児童養護施設職員であり、家族の一員であり、アウトドアライターである。このどれかが無くなれば私ではなくなるし、死んだも同然だ。36年とそこそこ生きて、やりたいことをしてきた私の思考がまとまって現在の活動をしている。この動きを止めれば、繰り返すようだが生に意味を見出だせない、文字通り死が待っている。

プロを名乗るようになり、間違いなく私の生活は変わった。刺激的になり、突き進んでいけば良い生が送れそうだ。


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プロ児童養護施設職員になるということ

世の中、どの業界にもプロフェッショナルが存在する。

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一般的な定義として、プロフェッショナルは特定の職業をメインに生計を立て、特化し確かな知識と技術を持つ人のことを指している。この他にも独自のプロの定義を持ち活動している人は多くおり、それは個人のマインドや業界によって独自の感覚が示されている。

私のライフワークである登山やアウトドア関係には、プロ登山家の竹内洋岳氏、プロアドベンチャーレーサーの田中正人氏がいる。竹内氏は8,000m峰14座を登る覚悟を、田中氏は人生において圧倒的な趣を持つことをプロという言葉に込めている。

めちゃくちゃカッコイイ。自らの覚悟や淀みのないその姿勢に、器用貧乏で気ままな暮らしを30年以上続けてきた私には無いマインドである。

私の経歴には、調理師、酪農関係、板金関係、保育士、会社員など、数えてみると、なんでこんな転々としているのだと、自ら歩んできた道であるが目を疑ってしまう食い散らかしっぷりがある。散らかしては後片付けはせず、散らかした欠片を拾っては次に行きを繰り返し、今まで何をしてきたのかと唐突に聞かれこれまでの職歴を答えると「すごいですね」と言われるが「かじった程度です」と返すのが定番のやり取りとなった。

かじった程度というのは本当にその通りで、深みにハマる前に身を引いてしまうので、表面的なノウハウは身につくものの、洗練された技術は一切身につかず、正にかじった程度となる。深く突っ込み真髄を知れば得るものも多かったのだろうが、いかんせんチームワークというものに治療不可能なアレルギー反応を持つ私にとって、同じ場所に長く留まる事をさせず、興味が湧けば一目散に飛びついてしまう性分も手伝い「何があっても死ぬことはなさそうな人」と呼ばれるようになった。

現在は私を児童養護施設の業界に呼び戻した奇特で尊敬する上司の職場(児童養護施設)に戻って仕事をしている。児童福祉は器用貧乏である私が10年以上のキャリアを持つ唯一の業界である。

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児童福祉の業界は面白い。食い散らかして今ではゴミ屋敷ばりとなった私の様な器用貧乏者がここまで滞在しているのには、子を生み育てるという行為を助けるという、人間(とヒト)として自然な行為を生業にできる点が私には面白く、登山・アウトドアという業界に一時身を置き、現在もアウトドア系のウェブライターを続けている事もあり、人間が持つ自然のサイクルに参加できるというところに、児童福祉の魅力と面白さを感じずにはいられないのだ。

業界から身を引く予定はなく、このまま児童福祉の業界には居座り続けるのだろうと思ったとき、周りを見回して思った不思議がある。

それは、児童養護施設職員にプロが少ない、という事である。

とはいえこれには語弊があり、プロフェッショナルの人は確かにいる。私が知る限りでも、児童養護の業界に覚悟を持って働き続け、確かな技術と知識を持つ凄い方達がおり、誰が見てもプロであり、その方達自身もプロという自覚と覚悟があるだろう。

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児童養護施設は非常にマイノリティな職業である。児童福祉という業界にあるひとつの職種として認知されているが、プライベートで児童養護施設職員であることを名乗ると、「あの伝説の?」と、実在していたことに驚かれる場合もあることから、児童養護施設というのがいかに人知れず(施設が地域に根づいている場合はこの限りではないが)働いている職業であるかを実感する。


しかしマイノリティであるからこそ、そこには非常に専門的な技術と知識が必要になってくる。
医療や障害福祉にも精通した所見を持ちながら日々のケアワーク、将来を見据えたケースワークを行う児童養護施設は、本来養成校でも専門のコースを設置すべきなほどにレベルが高い。

私は養成校出身であり、もちろん児童養護施設関係の学びもしているのだが、それは1週間の授業のうちのわずかな時間である。児童養護施設への入職を入学時から希望していたので、児童養護関係の授業は集中力10倍で傾聴し、10km先の小鳥が見えるほどに目を血走らせながら聞いていたものだった。それほどまでに飢えていたかといえばそうではないのだが、そう言っても過言ではないほどに児童養護の授業は貴重なものだった。

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私が専門学生だった頃から10年以上が経過しているが、特別なカリキュラムがなく児童養護施設業界に足を踏み入れるということは、素人が100m9秒台を出すほどに厳しく、フルマラソンを息を切らさずに完走できるスタミナが必要である。

十分な知識と技術、それを日々研鑽する努力が無ければ児童養護施設職員は務まらない。生半可な気持ちで臨めば心身を壊し人生の一瞬を棒に振るという結果を私は何人も見てきた。

一朝一夕のスキルと精神力で乗り切れるほど甘い世界ではないが、その分得られるものは大きい。

私の先輩には、10年以上子どもと長く関わり、実の親子といっても良い深い関係を築いた人がいる。先輩は一人の子の親となり、その子は新しい時代の担い手となり、その後も続く世代に向けてのバトンを先輩から受け取ったのである。生きていくには大なり小なり何かを背負うことで幸福になることがある。

不要な荷を下ろし、背負うべき荷を担ぐ手助けをすることは、生命として自然流れであり、文明に生きる人間の営みである。この成果を出した私の先輩は、十数年間鍛錬を怠らず、逃げず、子どものニーズに応え続けた、正にプロフェッショナルである。


とはいえ先輩のようなわけにもいかないのが現実だ。

国家資格があっても、児童養護施設で働いていても、常勤職員として雇用されても、それだけではプロと呼ぶには私の中では難しい。

私が思う児童養護施設のプロとは、以下のことと考えている。

1.対象者から逃げずニーズに最高のケアで応え続けていく
2.スポンサーメリットを理解し成果を上げていく
3.目標を掲げ達成し成長していく

福祉サービスのひとつである児童養護施設において相反する考え方もしれないが、私が思う児童養護施設のプロとは、上記のことである。

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子ども達や保護者のニーズを理解し最高のサービス(ケア)を提供し、その活動に賛同し援助頂ける支援者と社会に成果を報告、還元していくことは、サービス対象者が途絶えず慢性的に堕落していくこともある福祉施設と職員には必要なマインドだと考える。

また現状維持を是と思い込まず成長していくことが、変化していく社会とそこで生まれ出づる子ども達に対応していくには絶対的に必要である。

職員はいつでも辞めてこの業界を去ることが出来る。しかし、傷を持ち大人と社会に大きな不信を持つ子ども達に、プロである児童養護施設職員は、退路を断ち覚悟を持ってプロを名乗ることで、対象者と社会に最高のサービスを提供できる。辞めることを否定はしない、職員との職務を全うするまでその覚悟を持ち続けることが大切だ。

私は児童養護施設職員であり今まで(特にここ数年間は)アマチュアであったが、そろそろ退路を断ち覚悟を持っても良いのでは静かに考えていた。私より技術も知識も圧倒的に持っている人は全国に星の数ほどいるのだが、この業界に関わり続けプロとして名乗ることで、これまでとは違う成長を自分が出来るのではないか。恣意的な期待もあるが、それで私が思う生の充実と、結果子ども達やそこに関わる人達に還元されるなら良いのではないか。

そんな事を山に登りながら考えていた。

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世界と自我と好奇心-自分らしく生きるとは何かを考える

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登山というのは面白い。そう思って山を登り始めて10年以上、未だ飽きることなく頂きを踏んでは下山し、下山中には次に登る山のことを考えている。

登山は私に非常に多種多様なことを教えてくれる。自然との付き合い方、食に対する考え方、休日に電波を通じて飛来してくる仕事の断り方(すいません、電波が通じないところにいてと言える)などなど、山がなければ私という人間は透き通るレースカーテンより薄く、風に舞うティッシュよりも軽い人間性で生きていたのだろうなと本気で思う。

山が私に教えてくれる数多のことの中で、人は五感を通して世界を知るということがあり、このおかげで今日のネット社会において自我を維持して生きられているのだと最近は感じる。

登山をしていると身体に多くの情報が取り込まれてくる。

眼からは美しい眺望や一瞬で魅入られる紅葉、突然藪から飛び出した熊さん。肌からは死を覚悟しそうな爆風、水底に感じる岩の感覚。鼻や耳からは動物の気配や木々の香り、雷鳴の予感など。山に入り、登ってみないと感じられない自然現象や数多の出会いに、常に焦がれては時間を見つけ、意味があるのかないのか、そんなことを考えながら山頂に向かっている。

どれもこれも私が得た私だけの感覚、経験である。これは絶対的な真実であり、狭い世界ながらも私の摂理として機能している。登山をする人は、その行為にのめり込むほど偏屈で面倒な人になりやすいという感覚がある。それは、自分しか感じられなかったその場での体験があるからで、生死が関わるような危機的な状況を乗り越えてきたのならなおさらである。

私も登山者の端くれであるので、そうした体験は少なからずある。野生動物に襲われかけたことはあるし、仲間が急流に流され命からがらという瞬間を目撃してきた。安全を意識しても危険との遭遇はつきもので、山での経験は私の中で生き続け、文明との生活バランスがより自然に寄ることになる一因となった。

全身を使って自然の摂理を体験するという登山という行為は、現代社会で発信されているレビューとは相反する活動である。並列化された意思は、レビューの意見がまるで自分の意思かのような生々しさを持ち、いつしか他人の言葉が自分の言葉に置換され、自我を持たない人は、見たこともない人間の意思に飲み込まれていく。

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個の人として確立していくためには絶対的に必要なのが、好奇心とそれを動機とした経験である。

人は、自分の五感でしか世界を知ることはできない。それを補助したり好奇心のきっかけとするのは書籍であったりするのだが、最近は深い思考で書かれた書籍より、端的に表現されたSNSが人気なのだろうか。

この様な考え方は、世界を多様な視野で見ることが必要である一方、どうしても世界は自分の五感でしか感じることができないという事実も表している。

私は児童養護施設職員である。子どもたちには相手の気持ちを考えるという言葉を使うことも珍しくない。

子ども同士が喧嘩をしたとき、恋をしたとき、集団生活でトラブルになったとき、子どもが「私の面朝なんてあなたには分からない」と言われたときなど。

10年以上前、私が職員になった当時は、よくある「相手の気持ちを・・」みたいな言葉を使っていた。ただ、山登りをしていると、その言葉はちょっと難しい行為であることも感じた。

その子はひとりの人間である。私とは違った体験を五感を通して経て今、私の目の前にいる。気持ちを予測するには経験が必要だが、その経験がまだ無い子に「気持ちを考えて」といっても「嫌だと思う」とか「駄目だと思う」という、いかにも職員が納得しそうな言葉が返ってくるだけである。

そんなことを私の中で理解してからは、喜怒哀楽の行為を子どもには伝えるようにしており、誰がどう思おうと、私はその行為が嬉しく、悲しく、楽しいということを率直に伝えることを大事にしている。「お菓子をあげたら喜ぶ人もいるんだな」という体験や、ただ一緒にいるだけで過ぎていく時間の尊さを感じてもらうのも、子どもの世界を広げ、その子だけの世界を作っていくにはとても貴重である。

とはいっても、ネット社会において端的に集団意識に帰属できる安心を一方的に享受されるレビューやSNSは、利用する子どもによって恩恵が変わってくる。

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「思考に偏った情報に左右されない」「なにはともあれ行ってみよう」「会って話を聞いてみよう」という感覚を持つにはどうしたら良いだろうか。好奇心と経験は意図して与えるなど難しいからである(工夫はできる)

私は、抗うことのできない自然の摂理(登山)に出会った時、好奇心が溢れたのを今でも記憶している。

人の意思や主義主張などは時間とともに変わっていく。それに合わせていくのはとても疲れるし、時に自我を揺るがすことにもなる。それは社会という人間の集合体であるが故の特徴であるが、自然はそうもいかない。私はそれがとても心地よく、文明との距離感を保っていられる要因となっている。

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子ども達には、そうした揺るがないものに出会い、そして経験してほしいと感じる。

個人的には山であるのだが、そうでなくても良い。その出会いが持てるようになることが、この並列化を求め文明維持の歯車となることを望む社会に対し、自分の世界を作っていくためのきっかになるはずである。

そんな私は、今日も愛妻と愛犬、愛娘の自我に左右されながら楽しく生きている。
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