記憶の山

登山の記録と記憶 児童養護施設で働いています。その考察を記録しています。

児童養護施設のDX【デジタルトランスフォーメーション】

新型コロナウイルスによって社会は大きく変化した。
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「田舎」に分類される私の地域は、都市部から移住される方が多くなり、昔ながらの瓦屋根の平屋のそばに、真新しい新時代の平屋が誕生、工場跡地は更地になり「何が建つのやら」と思ったが、見事に住宅地に変貌している。

そもそも私は今住んでいる地域を田舎と思ったことはない。報道で「都心から近い田舎特集」にノミネートされ、どうやらここは田舎らしいと自覚したことがきっかけだ。


これまで生計を立てたり、望む仕事をするには不向きとされていた田舎が注目されている要因は、無論「デジタル」の力が大きい。

テレワークが推進され、数字的には十分なものではないが都心部では急速に普及し始め、外に出ずとも商品が購入できるオンラインショッピング、書類の電子化、脱ハンコ文化など、これまで「慣習」とされていたことにも、新型コロナウイルスにより変貌した。


社会が変化している時、児童福祉では何が起きているだろうか。

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「社会の一歩後ろを行く」という言葉を、イチ現場職員の私はいつも脳裏を音速でよぎる。

私は外部との連絡は基本的にメールやビジネス用のSNSだが、外部とのメールが出来ないからと電話してくる機関がある。打ち合わせの日程を組むのに数日を要し、連絡がないので「日程の件どうなりました?」と確認の電話を入れたら「あっ・・・」と言われ、頭を抱えたことがある。

どの組織にも恐らく社内SNSはあるものの、大半は職場に固定設置されているPCでしかアクセスできない。結局、外で仕事をする際には紙にして資料を持っていく手間が発生し、外で紙に書いた記録は職場に戻りデジタルの記録に残さなくてはいけない。

平成13年には電子署名法が施行され、印鑑や手書きの署名でなくても、電子署名が同等の効力を得ることが認められているにも関わらず、ここでも紙に起こして印鑑を押し、また印鑑をもらうというアナログ環境が未だに続いている。

さらにはデジタルスキルが慢性的に不足している。致し方ないことであるが、現場職員は1日の勤務時間を全て児童対応に充てている。子どもが学校、幼稚園で不在の時は、仕事ではなく休憩時間に充てなければシフトを回すことは出来ない。こうした状況では「パワーポイントで資料作り」「コーポレートサイトを作って法人の認知を上げる」なんてことは、令和の世において夢物語である。

組織風土としても、デジタルツールを活用して変革した施設は少ないだろう。どこでも連絡、簡易的な意思疎通が図れ、データも組織の全員に素早くオープンに出来るようになった環境では、これまで存在していた「現場と管理職繋ぐ」中間管理職は不要である。年功制が大半の福祉施設では、コストがかかるだけの名ばかり職員は、若手職員の非難を浴び、いずれ居場所を失っていく。その若手職員もいずれそうなる運命にあるのだが。


生活する子どもも同様だ。


デジタル社会において重要なことは生身で感じる「経験」である。

「あなたはあなたで良い」事が認められつつある多様性が浸透されつつあるが、映画やレストラン、商品などには「レビュー」が表示され、食べてもいない料理を「美味しくない」と、自分の意見のように判断する人が増えている。

SNSでは「白か黒か」といった発信が続けられ「悩み」「思考する」機会が減少しつつある。短文でインパクトのあるテキストや動画を残そうとすれば自ずとそうなるが、ここでも他人の意思が自分にすり替わり「実際に会ってみたら良い人だった」「行ってみたら綺麗な場所だった」という経験を失わせている。


子どもたちは思考する必要が無い(させない)デジタル社会を生きている。施設職員に必要なのは、自分がこの世に確かに生きている「実感」「感触」であり、時に上手くいかず、学校を始めとしたコミュニティで生じる「摩擦」も、子どもたちに提供しなければならない「環境」である。

デジタル化に伴う子どもや社会の変化を追うことは、児童養護施設は難しい環境にある。支援者としての技術は突出しているが、目まぐるしく進化する情報技術を把握しながら生活に反映させることは、現状では専門外である。情報は報道などで追うことは出来る、それを現場にアウトプットすることは難しいだろう。



デジタルが基盤となった社会における児童福祉施設における課題は、挙げればキリがない程だ。

では、何を変えていくのか。

それがDX(デジタルトランスフォーメーション)である。

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ざっくり言えば「IT技術を使って組織、技術を変革させること」である。ペーパーレス化すれば良いとかデジタルツールを導入すればお終い、というわけではない。技術を導入することで組織や個人を変容させることが大切だ。

「限られた時間で生産性と効率化を最大化させ、現場の子どもたちにコミットする環境を構築する」ことが、児童福祉施設におけるDXの目的だ。


慢性的な人手不足に陥っている児童養護施設は、本体施設はさることながら、長期持続可能(サスティナブル)な組織体制を確立する事が急務だ。そのために「人材を確保する」ことは変わらずの施策ではあるものの、それだけでは足りない。

旧態依然とした体制が今後も続けば、人材を確保しても定着せず、再び人材確保の無限ループがやってくる。

組織内には「無駄」が溢れている。

①職場に管理職がいなければ承認されない案件の山
②未だに続く現金決済
③「次の会議で決めよう」と、何十日も進まない議論の数々
④データ化されずにいる紙資料の保存で利益が上がらず、活用されていない土地
⑤外部MTGのための往復の車移動。

こうした問題以外にも、先述したように問題は山積みだ。だがここにある問題は、組織を見直してデジタル技術を活用すれば長期的な効果が見込め、個々の意識が変化すれば今すぐにでも実行可能なものもある。

子どもたちの生活にも、職員が意識すれば変革していけることは多い。デジタル社会において必要な「素早い情報の入手」「経験」の提供には、移動手段や環境の提供が必要である。紙媒体では劣化が早く、閲覧できる情報が「古紙回収」という名で失われる新聞ではなく、タブレットを導入していつでも情報を入手できたほうが良い。(新聞の購読者層は高齢化しており、発行部数も十数年前に比べて大きく減っている)

経験の場を得るには、正直予算が必要で長期的な施策となる。これには行政の理解が必要だ。習い事には未だ児童の資産で費用が捻出されている現状にあるので、この裾野を広げるだけでも効果は高い。組織が変革すれば、自ずと休日や日々の外出も増えるだろう。

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児童養護施設は旧態依然とした体制が続いている。十数年前、恐らく数多の施設がPCやシステムを導入しているが、職員や組織体制までの変革に至らず、不具合を起こしていることと察する。
子どもたちへの利益を最大化するために、DXは必須だ。個人が、組織が変革することで、児童養護施設はこれからの時代に適用できるだろう。


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キャンプと焚火問題を考える

最近は私の周りで、キャンプや野遊びをしたいという人が増えてきた。
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よくお世話になっているキャンプ場もここ数年は賑わいを見せ、どちらかといえば田舎地域に居住する私は、原油と複合材料で形成された都市群のストレスと、自然の発するヒーリング効果の絶大さを実感している。

とはいえ、登山の世界は肌感ではそんなに変化は見られない。沢登りにおいては、綺麗なウェアに身を包みキャッキャウフフと水浴びをする女性の姿は皆無であり、吸血ヒルに吸われようとも行軍し「沢にいるんだから洗濯してるのと一緒でしょ」と、服と身体を数日間洗うことをせず「街に出るから流石に・・」と、半ば仕方なく風呂に入る様な、人の皮を被った動物といえる人種しか相変わらず見かけない。

焚火においても「見つめている時間が至福」というのが昨今のキャンプブームにおける焚火の魅力であるが、こと登山中においては、確かに焚火のために渓谷に入ることもあるのだが、濡れた尻を焚火に当て「こりゃぁあったけぇな」と座薬を入れる為に尻を妻に突き出すが如くの姿勢で保温と乾燥を行うためなのであり、「でっかいお肉」を広告宣伝にでも使えそうな絵面で美味しく頂くのではなく、沢の途中で捕獲したヒキガエルやキノコ、渓流魚、もしくは残置された加工食品を、サササッと調理するための焚火である。

沢で安全な場所で野営する際には酒もしこたま飲む。焚火で燻した渓流魚で作る骨酒は格別なのだが、魚が骨身になるまでは、男達がベロベロにしゃぶり尽くした魚で作るため、もはや衛生環境や絵面だけでいえば「地獄絵図」なのだが、気にしたことは一度もない。

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昨今のアウトドアブームにおける人口増や焚火ブームは、登山をする私には影響が薄いというのは書いたとおりであるが、世の中ではそうではないらしい。


河川では燃えきらなかった薪が残り、キャンプ場で持ち込んだ荷物を燃やし、燃えやすいものがある環境下で焚火をしたために延焼騒ぎになったニュースもある。

こうした事例に対処するべく、キャンプ場では直火による焚火が禁止となったところもある。その内さらなる規制がかかる事もあるかもしれない。

そもそも、何故こうした焚火による問題が増えているのか。

ひとつはユーザー人口の増加である。キャンプ人口は10年前と比較して100万人ほど増加しており、マナー違反者が増えて問題が顕著になるのは、ある意味自然な流れである。

もうひとつは、新型コロナウイルスによる自粛規制だ。閉鎖環境から飛び出して野遊びをしたいというのは納得だが、知識なくとりあえず道具を揃えてみたものの、使い方や自然と共生していくためのマナーというところまでの準備には至らなかったことが考えられる。

最後に、SNSユーザーの増加だろう。絵力が抜群なキャンプと焚火は、エゴイズム全開の知識なしでフィールドに入る人が増えた一因だ。


こうした要因を最も危惧しているのが、今日まで自然と親しんできたアウトドアユーザーである。私もその一人であるが、特に頭を悩ませているのはキャンプをメインにする人達だ。利用が制限されるというドライな見方もあるが、自分達が大切にしてきたフィールドが一瞬にして荒らされていく時の心情は、想像するに容易い。

さらに危惧するのが「体験」という場が減少していくこだと最近よく感じる。ネット環境の普及は、人に新たな記憶を増やし、膨大な知識をデバイスを通して与える事となったが、ネットワークで対応できないのは「生の体験」である。「犬の毛の触り心地」とネットで記載があっても、実際に触った体験と一致させることが必要であり、この体験が脳に最も刺激的な記憶として残り「自分だけの知識」となる。最近はレビューやイイねで、他人の意見や知識が自分のものの様に誤認してしまうことが、多様性が認められ、また求められている社会における問題だが、キャンプ場における焚火を始めとした自然での体験は、こうした多様性を獲得していくための大事な環境である。

こうした体験とフィールド、人間との共生という問題をクリアするために必要なのは、果たして何だろうか。

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火の取り扱いや自然との関わりを幼少期から深める「体験」、それを後世へ繋げるための「伝承」、今ある「環境」を見直す、人が人に下す「規制」(あんまりしたくない)。きっと考えれば沢山の方法があり、今この時をそれを実践されている個人や団体、企業はある。決して何もしていないわけではないだろう。

とはいえ、これまで資本主義という大きな流れを急成長させ、文明を発展させてきた現代社会の歪みが出てきたのかと思うと、人のエゴの副産物が、こうした焚火問題となったことを認める必要があるとも感じる。

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児童養護施設の平等と公平とは

健康で文化的で最低限度の生活を営む権利を有する。

この言葉は、児童養護施設に子ども、そこに携わる者誰もが意識する言葉である。最近はこの言葉を紐解こうと思考を巡らせている。

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児童養護施設で生活する子ども達は、家庭ではないところで支援が必要であることから施設に入所する。食事が満足に与えられない、保護者から暴言を浴びせかけられる、暴力を受けるなど、その事例は非常に多岐に渡るが、健康を害され、生活を営むための衣食住や教育を受けられないといったことが要因であり、虐待で言えば、保護者の一方的な行為によって保護者が何らかの利益を得、子どもが被害を被ることが原因として、親元から離れ児童養護施設で生活する。

児童養護施設で生活する子ども達にはこうした背景があり、誰もが「当たり前」に受けられる生活や「安心」「安全」を施設で「平等」に受ける権利がある。教育は誰もが高校卒業まで受けることが出来、食事も朝昼晩、温かい状態で食べ、安心して布団に入り眠る。保護者の代わりとなる職員(大人)が常にそばにいるというのも、一般家庭では平等ではないかもしれないが、社会は常にあなたを見守っているサインとして、欠かせないアクションである。

児童養護施設の子ども達は、我が国の根本にある「誰もが平等に受ける権利」の元、生活している。その中で子どもは育ち、社会の荒波の中へ踏み出していく。

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ここまで述べて、ちょっと疑問を感じてくる。社会は「公平」であるということだ。社会は公平であることで平等が成立するのであるため、子ども達は、平等を保障しながらも、公平な生活を送ることも必要になってくる。

例えば、子どもがスポーツに強いスクールに通いたいとして、そこは遠距離、学費も高く、そう安易に行けるところではない。その子どもは幼い頃からスポーツに励み、中学校では部活動の部長を務め、部を全国大会出場という快挙を成し遂げていた。

この場合、一般家庭であればどうするだろうか。私がその保護者であれば、きっと多少の無理をしてでも送り出したり、資金を調達するべく奔走したことだろう。

しかし、こうした例の場合、民間団体に頼る方法を除いては、施設に供される予算では、この子の望むスクールに行くことは難しい。方法があるとすれば、この子が持つ「資産」である。

資産の最たるモノが「児童手当」だ。次いでアルバイト、日々施設から渡される小遣いも該当する。
こうした個人の資産を活用していく以外に、この子が通う方法はない(少なくとも私のいる施設では)

「子どもの資産なら使っても良いのでは?」と思う人もいる。私も実際のところ、そう思う。どんな手法でも子どもが望むなら使えば良い。ただここは非常に難しい判断で、色々なケースがある。

しかし、施設に入ったところのスタートラインを考えれば、皆最初は「ゼロ」からのスタートが基本だとも思う。そこから子どもが努力し得てきた結果で、施設は公平な判断を下し、金が必要であれば支出すべきだ。既に持っている資産から支出することは、ちょっとズルい。そして施設にいる間に子どもの資産を使えば、施設を出る時に一文無しで社会に出るリスクもはらんでいる。これには支援の在り方にも矛盾が生じることだろう。

施設で暮らす子ども達は、皆平等だ。しかし、公平は保障されていない。この子のために施設の予算を使おうとすれば、そこには平等の名の下「一般家庭であれば通えない子もいる」といった議論が行われ、時に公平な判断が成されないこともある。これが自分で収入を得られる高校生であれば別かもしれない(公平な機会を自ら得られる)が、小中学生はどうだろうか。「一般家庭が無理なのであなたも無理です」と、子どもからしたら訳の分からない理屈を並べられて、社会への不満を募らせていくのは間違いない。

こうした例もある。子ども達「個々の」自転車は、民間から頂ける寄付や寄贈で賄われている。もちろん予算内で購入も出来るが、それが全国どの児童養護施設でも対応できるかといえば、地域差があるのが恐らく現状だろう。

そうなると、子ども達は貯めた小遣いで購入することになる。私が幼少期の頃は、成長に合わせて親が自転車を購入してくれ、そのおかげで地域の隅々を移動する手段があったことで、「移動の限界」ストレスから開放され、友人ともザリガニ釣りに出かけ、トカゲの捕獲に精を出すといった活動が出来、今でも思い出と励みになっている。

大人が子どもの成長に合わせて購入することが、子どもに「平等」に与えられるべき権利ではないだろうか。

私は子どもに筋の通っていないことは説明しない。それは私の責任であり、子どもとの信頼関係においては最も欠かせないことだと思っている。他が無理だから君も無理だよ、などとは口が裂けても言えないし、大人の都合で理屈を捻じ曲げるのも好まない。自転車に関していえば「本当なら買ってやりたいが、それを買ってやれる金が無い。」と伝えるのが、私が思う筋である。

「平等」というラインを抜け出せば、子ども達は一般家庭であれば報われる努力をしたとしても、施設では報われることのない努力を続けることとなる。人間は自身の行動に対する結果(報酬)を得て生存する生き物だ。エゴや上昇志向を否定し、ただ与えられるものだけを受けて育つ子どもは、果たして本当の支援を受けることは出来るのだろうか。

児童養護施設は難しい立ち位置にいる。それは、これまで貧困という社会の中で生まれたシステムが故に、現代の「望み、行動することで叶う社会」には十分に対応できていない。

とはいえ、私が児童養護施設に務めてからシステムが変わらなかったといえば、そうでもない。子どもが望めば学習塾に通えるようになったし、私立の学校にも通えるようになった。子どもが望み、努力した結果に応えられるようになってきているのは、間違いのない事実である。

児童養護施設は「平等」と「公平」を内包した施設であることが理想だ。

それは今の社会システムが公平な社会を目指しているからで、児童養護施設もその流れを汲むことが必須だからだ。

そして、ここにきて最後に思い出すのが「健康で文化的で最低限度の生活」だ。いわゆる児童養護施設における「平等」のラインとも言える点だ。最低限度の生活とは一体どの程度のことを言うのだろうか。スクールに通えること、自転車を買えることは最低限度なのか、それとも最低以上なのか。

児童養護施設は「一般的に見れば」既に最低限度の生活をゆうに超えている生活環境を提供されている。

私の家はいつも親が在宅している生活ではなかったし、なんなら食事は時に惣菜がメインであった。また親友であるO君の家は、和式便所で遊びに行く度に「トイレが壊れててね」と言われ使用不可、O君はウンコを我慢しては野糞(今の私の推奨)かとりあえず便器に落とすということが日常茶飯事だったことだろう。実家は大都会横浜の隣町であり、世は既に平成であったが、その当時ですらこの生活環境だ。私の施設は5LDKに綺麗なトイレが2つある。O君が聞いたら天地がひっくり返るほど驚くに違いない。

私と親友の生活環境は、外から見たら健康で文化的であったかといえば疑わしいのかもしれない(私も親友も健康にスクスク育ちました)。が、自転車は乗れていたし、私は習い事にも自身の金を払わず、当時は児童手当もなく、親の収入(施設でいえば措置費)で通えていた。

健康で文化的で最低限度の生活とは何なのか。ここを考えていけばいくほど、施設の矛盾が発生していることに気がついていく。健康で文化的で最低限度の生活、これを児童養護施設職員が現場で突き詰めて考えていく必要があるだろう。

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今回出した例はほんの一例に過ぎず、きっと児童養護施設には、平等という言葉に隠された不公平が、まだまだ潜んでいる。ひとつひとつの問題を発見し対処する。そこには子どもが公平に評価されるシステムを目指すというテーマが必要だ。

公平な施設を目指すには、今の施設職員がこの問題に気づき、そして声を上げることも必要である。


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