山を登るようになって10年以上になる。
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始めは整備された自然の中を歩き、気が付けば沢を遡行し、道なき道を登り、藪をかき分けるという、無調整の自然を苦悶の表情で傷だらけになって登るという苦行を好むようになった。

整備された自然というのは、人の手が加えられた自然環境を指し、キャンプ場や登山道がこれにあたり、ここから一歩出れば、そこは未整備の自然が待っている。去年歩いた場所が歩けなくなっていたり、地形が大きく変わっていて沢の渡渉が必要な場合や、登攀を余儀なくされることも珍しくない。

そんな不安と向き合いながら自分だけの道を作っていく作業は、芸術と呼ぶに相応しく、不器用で美術が中学時代常に5段階中2を維持し、自画像を描けば「これは腕(素質)が悪い」と、適切なアドバイスがもらえないほど絶望的な技術を有する私にとって、登山で自らを表現するというのは、今後も切ってはならない表現技法なのである。

私が登山を始めた頃は、まだSNSやiPhoneが普及する少し前であったので、山を登りながら自問自答し、社会でインプットされた大量の情報を山で整理し、自分という意思を確固たるものに近づけていく事によって、世の中と自分という存在を認識し、山での体験は混じりっけと偽りがなく、自然は人間の思惑が及ばない空間であることに喜びを覚えることとなるという、現在の自己表現とは別の、自己の確立というために登っていたのだろうと、今になって思う。

思考し、表現し、経験する。そんな当たり前(だった)が社会ではやりづらい。


多様性という言葉をよく聞くようになり、私の周りでは、固定観念に囚われた人間を「考え方が古い」と断じられるのが日常になりつつある。

登山は多様性とは親和性が高い。自然というフィールドの中では、社会の中で役に立つ学歴や肩書きは役に立たない。肩書があれば山に登れるわけではないし、安心してパーティを組んで難関を突破もできない。とことん個人の能力が問われる世界は、一見して残酷ではあるものの、人種、国籍、性別、社会的優劣を越えていく山登りは、それこそ古い考え方(情報)を持っていては遭難し、価値観に囚われていては登山そのものが窮屈になる。

だからこそ、表現技法としての登山は洗練されていて魅力的である。

一方、社会ではどうか。
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経済を上手く回すために消費が促され、情報は操作され、いかにも個人の意思で選択したかのように見せかけ、満足するように出来上がっている。「お金を貯めてマイホーム」なんていうのは典型的な例であり、CMというのも消費を促すためには手っ取り早い手法である。

とはいっても、私もお金を貯めてマイホームが某海外ブランドのチキンと同じ様に遺伝子レベルで刷り込まれているので、家を買って幸福感は感じたし、CMを見てゲームソフトを親に購入を懇願した人間であるし、ポケモンが流行ったときは、どこを見渡してもポケモン一色であったので、個人の意思が実は情報操作による大衆の意思であったとしても、それで良いという選択をすれば、それはそれで良いんじゃなかろうかと思ったりもする。

しかし、最近は多様性の裏で、社会がそれを否定する構造になっているのは引っかかる。

多様性といっても様々で、生物的多様性という点では、野外で起きた外来種と在来種の交雑を認めず、飼育に交雑は認められているというのはどうなのだろうか。労働でいえば、個の能力や適性を考慮した形態を取っていいものだが、体裁は「個々に合わせた働き方を」と言いつつも、未だに年功制で個々に合わせた働き方など皆無な現状もある。

こうした社会の矛盾に苦しんでいるのは今を生きる子ども達であり、私の少年時代に比べて、大分生きづらい世の中になった。

情報が氾濫、いつでも入手できるようになり、意思疎通が瞬時に可能となった現代で、少年時代の私が自ら思考し、決断できる人間であれただろうか。きっと、善悪をはっきり区別してくれたほうが楽だという思考になったかもしれない。

それは今の政治によく現れているし、考える隙など与えない姿勢は、生物的多様性、社会の労働環境など多方に考慮すると、果たして多様性を育む環境にあるのだろうか。そして、それは社会が持つ多様性の矛盾でもある。

この矛盾に抗うにはどうしたら良いだろうか。
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今思うのは、一度情報から離れてみるというのが必要だろうということだ。

になり、自分の意思と向き合い結論づけることは、個人的に多様性を育む上では、大人こども関係なく必須である。そもそも自分の意思なくして、他者を理解し、受け入れることなど不可能だ。思考の海(ネットワーク)から離れることは、大きな効果があるだろう。

自分を自分と認識し意思を持つには、非常に多くの情報や体験が必要だ。

他人とを隔てる顔と声、生まれてからの記憶、起きた時に見える世界、未来の予感。

人が情報に触れられる世界になったとはいえ、個人の意思=ネットとはなっていない現在、情報のよって個人の意思が塗り替えられ、声や顔が変えられ、情報もまるで自分の部品のように取り入れ、体験していないことも容易に偽れるようになったことの弊害は、人がネットワークを誤った使い方で進歩させてきた結果なのかもしれない。そんな中で大切なのは、自分を自分と定義できる、自分だけの経験なのだ。

余談だが、私が働く児童養護施設は、こうしたネットワークへの対応や自分を定義づけるための体験に非常に弱い。人員や予算の問題ということや、生み出した文明に人間自体が追いついていないという、これまた悲惨な経過を辿っている。ぜひ、児童養護施設に予算と人をより充てて頂きたい。


話を戻して、自分だけの経験の獲得とその必要性を感じたのは、ボランティアで何度か足を運んでいる子ども達とのキャンプだった。

目の前にある世界(限られた情報)を取り入れ、その手で触れ、生や願望に向かって行動していく体験は、否定や肯定を超越した感動がある。それぞれが思考して行動する姿はなんとも逞しく、情報を持っている人から聞き出し、それを自らの行動で実証、落とし込んでいく光景は、35歳になるオジサンとしてはなんだか嬉しくなってしまう。

チームプレーも時に必要であるが、個人が努力し導き出した結果が集まることで最良の結果が生まれる経験も、正に多様性が生み出すひとつの形なのだろうと思ったり。
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そして私は福祉に携わる人間であるので、最後に気にするのは、全ての人間が社会が望む多様性に適応できるわけではない、ということについてだ。

他者を理解し受け入れ、自分自身も発信していく力というのは、誰しもが身につけられるわけではない。

感覚的だが、ゆっくり、しかし確実に、適応できない個人への支援は難しくなってきている気がする。

文明の進化(出来るなら試さずにはいられないヒトの性であり、否定できない)と多様性は難しい問題であり、今その歪みが生まれている。

個人と社会の矛盾を、これからも考えていきたい。

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