私の職場での立場は一応、中間管理職である。「社員の帰属意識を高めるために日夜スタッフとコミュニケーションを取っております」を大義名分に、近所のラーメン屋が美味いだとか、アイツめっちゃムカつくからウンコ投げつけてやろうとか、そろそろ介護保険どうしようとか、そんな事を話したり聞いたりするという重役だ。※本当は、ちゃんと仕事してます。すみません。

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職場での役職はあるが、個人的に付けている役職は「妖怪カエルジジイ」として、その職責を全うしている。どういう役職かというと、つまりはアウトドア要員である。

公私の人間関係において、私が登山を中心としたアウトドア活動をしているのは周知の事実だ。

私の普段着はアウトドアブランドのモンベルと、作業着ブランドのワークマンのアウトドアカテゴリーが中心なため、体育祭に行くと「山行くの?」と生徒主任の先生に言われ、妻のママ友には「全身モンベル」とありたがたいコメントを頂戴し、年に1回ほど突然やってくる偉い役職を持った人達と顔を合わせる外での会議に、さすがにフォーマルな服を着て行かなければいけない事態になれば、クローゼットの隅から黄ばんだシャツを出して、どうにかして欲しいと会議前日に妻に深々と頭を下げ、まるで赤子を包む天使の羽根を想像させるフワフワなタオルのごとく、真っ白なシャツに仕立ててもらわなければならないほど、見た目からいかにも「アウトドア好きです」が放出されている。

そんな私だが、一般的に「山登ってます」と言われれば、かの有名な霊峰「富士山」の頂上で「日本一の男になりましたわ」と言ったり、「高尾山」で帰りにビアガーデンでも寄ろうかな、などという姿を想像するのが「山登ってます」という8文字に凝縮されているという偏見を抱いており、それは私のやっている登山とは全く相反する世界であり誤解を招いてしまうので「道のない山でカエル食べながら登ってます」と言えば、完璧でないまでも私の思考はご理解頂けるものとして説明している。

そんなこんなで職場の子どもにも同じ様に説明しては「なんか分かんないけど自然に詳しいヤバい人」という烙印を押してもらい、子どもから提示される辞令には「妖怪カエルジジイ」と記載が入ることとなった。

カエルジジイが勤務していると、子どもや同僚からある言葉をよく昨今よく聞くようになった。「キャンプ行きたい」である。

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コロナ禍においてアウトドア活動の需要は全国的に高い。コロナ禍以前のアウトドアに関する市場規模も2019年と前年を比較すると、前年比103.2%という推移で、この時勢で更に需要は高くなるものと予測される。

この推移の背景には「体験(思考や不確実性)の消失」があり、外に出て不要不急の活動をして人間性を取り戻したいという欲求があるものと考えている。

仕事において一定の無駄を省くことは必要だ。資本主義において成果の出ない行為に対して報酬を払うことは矛盾しているし、成長し続けなければいけない社会構造において非効率な問題を見極め生産性を上げていくことも理解できる。

しかし、そうした思想が私生活に及んでくるといささか息苦しくなる。

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ボタンを押せば明かりが灯り、蛇口を捻れば水が出る、スイッチひとつで火を使わずに調理ができる今の世の中は、本当に便利なことこの上ない。

安全で一見して豊かと思える生活はひとつの理想郷と考えられるが、一方で、消費経済の歯車としてひたすら搾取され続ける事を意味しており、システマチックで無意識的に文明の一部品として生きていくこととなり、社会が示された答えに思考することなく動くという「思考し悩み、時に不確実なことにも対処する」という、ヒトが生を実感するために必要な要素が失われていく。

それがコロナ禍によって顕著となり、体験の中で得られる「全身で分かる喜び」「不確実に対処し成長する実感」を、子どもも大人も欲しているのだろうと考えている。

また、自然環境を求めるのも理解できる現象である。

ここは話を深めるとキリがないのだが、ひとつの要素としてあるのは「多様性の広がり」だろうか。

昨今話題に上がっている「多様性」とは、相手を知り理解し、自らも変わっていくことの一連の流れであるが、それが分かっていても浸透するには難しいものがある。

人間は様々なものに既定されて生きている。「役職」「性別」「出身地」「時代」など、そうしたものがあれば相手を理解し対処するのが早いし効率が良い。しかし、今はそういった既定されたことが多様性の中では壁になりつつある。

文明の中で生活するには、自分が既定されることに疲れることがあるが、自然の中ではそのような事は無い。山仲間と登っているとき、キャンプしているとき、そこにいるのは全ての既定から取り払われた1人の人間であり、それはとても心地の良い時間である。焚火を囲いながら何気ない話をするのが楽しいのも、本質的な自分で語れる空間であるからだ。

自然という、何が起こるかわからない不確実性。これも、全てが予測できる安定できる世界では無いワクワク感である。「薪を足して火が大きくなるのを待つ」というのは、不安の中に希望を見出し期待するという、とてもポジティブで魅力的な思考を体験できる。それはヒトが本来当たり前とされていた営みであり、悩みながらも思考し進んでいく考え方は、昨今SNSなどの普及により失われた人間性を取り戻すことに繋がる。そして忖度のない世界である自然というのは、やはりコロナ禍において需要が高いのは、非常に頷ける背景である。


ここで、私の職場である児童養護施設の子どもたちのアウトドア体験の必要性を考える。

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児童養護施設に入所している子ども達の大半は「家族」という、本来一番安心出来る場所で虐待を受けた背景を持っている。「明日がどうなるか分からない不安」「今この瞬間を生きなければいけない緊張」「信頼できない家族」「信用できない大人」という想像を絶する世界で生活し、施設という環境にいるものの、その不安や緊張を解くことは容易ではない。

幼少期から児童養護施設に入所した児童は、物心つく前なので自分がいた世界がどれほど過酷かを第三者的に理解することは難しいが、成長し現実が見えてくると「普通の家族ではなかった」「家族に戻りたいけど戻れない」「児童養護施設にいる自分」など、悩みや葛藤が子どもの自己肯定感を奪っていく。

子どもにとってこれほど辛いものはない。人間が生きていく上で支えとなるのは「体験」「思い出」である。自分を肯定する体験がなく、思い出というピースが無ければ、いつまでも誰かに承認を求め、例え暴力であろうとも思い出と繋がりを確保しようとする。

中学校から児童養護施設に入所して転校したとき、高校に進学するときに言われる言葉がある。「施設にいること知られたくない」である。当然の気持ちであり、私が子どもの立場であったら同じことを思う。児童養護施設に暮らすことで「一般家族と同じ様に生活したい」と思うし、施設入所中であることを知られることで「自分は皆とは違う。同じではない」という事を露呈することは、10代の人間に耐えられる人は非常に限られている。同じであることの安心感を持つことは「違っても良い」と向かうための大事なベースでもある。

私は10代の頃、高校の受験戦争を逃れ推薦受験で専門学校の道を消極的に選んだのだが、普通高校に通う友人達を見て、普通高校に行って普通の勉強をするという、普通街道が当然と思っていたこともあり、自ら消極的に選んだとはいえ、自分は皆と同じではないことの劣等感をしばらく引きずっていた。今となっては専門学校に行ったことは非常に肯定的に捉えているが、同じではないことの不安感に耐えるスタミナは当時皆無であり、子ども達ほどではないがその気持ちは僅かに理解できる。

こうした高校進学時の悩みを言われたとき、なんとなしに伝えるのが「アナタはアナタで良いのだ」ということだ。施設入所であろうがなかろうが、アナタを信頼しているしどんな人間であっても否定しない「施設入所だから」という無用な施しもしないというスタンスである。

無用な施しというのは、一般家族や社会で受けられるべきものは施設入所であっても同様に受けて良いのだが「施設入所だから」といって過剰な施しやサービスは、あまりしたくないのが私の個人的考えだ。それは「アナタにしたいこと」ではなく、相手を理解しないただの自己満足で終わってしまう。


そんな「自分は自分で良い」という体験が分かりやすく得られるのは、自然の世界である。

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生まれや育ち主義思想も関係ない。そこにはただ純粋に生きるための営みが繰り返されている場所に身を置くのは、普段キャンプや山登りをしない子どもにとっては新鮮な時間である。椅子に座り木漏れ日を浴び、薪を集めて火を熾し、魚を獲って食べる。不確実の中から希望と期待を見出し、薪が燃えて食事ができる成功体験は、施設や家庭、教師や生徒という立場や環境ではない「アナタだからできた事」の強い実感を得られるだろう。

先日、私が普段行く沢登りの渓谷の一区間に、子ども達を連れて出かけた。水をジャブジャブに浴び、登れるかも分からない滝を、職員が確保したザイルを使って攀じ登り、冷え切った身体をバーナーで沸かしたお湯を入れたカップラーメンで温めるという、夏のサバイバル体験であった。

そこで見た子ども達の表情はとても明るく、未知なるフィールドへの好奇心や、子ども達に眠っていた探検心から来た表情であり、水の流れ、岩の感覚の新鮮さだけでなく、ヒルに吸血された事すら好意的な体験として取り込んでいく姿に、子ども達の可能性と未来を感じずにはいられなかった。

自然という大きな存在にありのままに受け入れられ、そしてその自然から忖度のない体験を受け取った実感は、自分という存在が揺れ動きやすく、小さな体に大きな傷を持った児童養護施設の子ども達にとって非常に大切なことである。

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児童養護施設から見たアウトドア活動というのは、これまでなんとなく「大事だよね」と思われていた。登山を趣味として、一部生業としても持つ身としては、自然の中で子ども達のを高めていくことは、もっと精力的であって良いかと思っている。周辺が自然環境に恵まれた施設であれば良いのだが、都市部の施設ではその日常的に得られる機会は少ない事が問題だが、身近にある自然を感じながら、週末には、ライターとヤカン、カップ麺を持って(実際はもっと必要だが)子ども達と出かけたい。

妖怪カエルジジイはそう思っています。


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