登山には三つの壁がある。
KIMG2152

アイガー・グランドジョラス・マッターホルン。どれも登攀することは困難とされるアルプスの三大北壁と呼ばれ、これまで名だたる登山家が挑戦し、登頂という栄光を得た人から帰るぬ人になった者まで、まさに「命がけ」で挑む山である。

マッターホルンの突き出た山容と自然の造形は、見ているだけでも興奮が抑えられない、人間の深奥に呼びかけるような美しさがある。その美しさの裏腹にある「ここを登れるのか」という恐怖に対峙し登頂を目指す行為は、生きることの本質を追い求める、人間の呆れるほどに純粋な「生」への執着と表現行為に他ならず、北壁の美しさはその山容のみならず、そこに挑む登山家と合わせてのものである。登れないにしても、その目にいつかは焼き付けたいのが三大北壁である。

世界にはこうした三大北壁があるが、実は登山者には誰にも起こり得る三大北壁がある。

それは「就職」「結婚」「子育て」である。

この壁は主に20代から眼前に姿を現し、現実の三大北壁と同様、一見して美しく麻薬的な高揚を得られるものであるが、その裏には日本の霊峰であり冬にはその禍々しさと神々しさを同居させる富士山に似た恐怖を備えている。

ベースキャンプを抜ければ「公休以外は山に行けない転倒」「転勤滑落」「結婚遭難」「結婚式の段取り調整悪天」というアクシデントが想定され、中でも群を抜いているのが「登山計画にない育児というルート変更」である。

これら全ての要素を乗り越え登頂を果たした登山者はそう多くはなく、実際私の知っている人でも、何とか家族を騙くらかして山に登った人がいたり、かつてこの北壁に挑戦した人で「お前はもう登れんぞ」と果敢に挑んだ武勇伝を寂しい背中で語り、私に訪れる未来を告げて飲み屋を後にした人もいる。

仕事や結婚に関しても同様である。

急な仕事が入れば、例え翌日に計画していた重要な山行であっても延期に追い込まれる事も珍しくない。
世の中には「自然は逃げない」という都合の良い謳い文句があるが、計画を立てた山は「今この時」しかなく、山に登る理由もその時々で違う、自然は逃げないが、今見えている山は今しか登れないのだ。

「明日は大事な山なんです」と登山者のエゴを全面に押し出しても「こっちも大事な仕事だよ」と言われれば、本当にその通りであるので延期を余儀なくされる。

結婚でいえば「私と山、どっちが大事なのよ」と選択を迫られる。これもまた登山者に訪れるイベントのひとつで、私はここで「もちろん君だよ」と言い切れた登山者を聞いたことがない。

山を継続的に登っている人は、山という自然に魅せられ、登山という行為に「自然」や「人生」「文明」というテーマを追い求めていく(ものだと勝手に思っています)そのため、自分という存在がフィールドワークで構成されているといっても過言ではなく、ここに「私と山」という選択肢を迫ることは「自分を否定してあなたを選択させる」ということと同義であり、もはやこの質問は「私を」空っぽにさせ、何の約にも立たないポンコツ人間にさせる魔法の言葉なのだ。

故に、この「就職」「結婚」「子育て」という北壁を越えることは困難を極め、ここを越えた人は、多大なる功績を残した登山家に贈られるピオレドール賞に相当する栄光を手にすることが出来る。

KIMG2190


ここまでの話を経ると「文明社会にいる限り、登山者は満足な登山が出来ない」ということになる。
果たしてそうだろうか。最近はそんなことを考える。

2週間ほど前「行きたい山に行けなくて大変ですね」といった声があった。仕事は大変、子育てもある中で休日に山に行きたくても行けないだろうという私を存分に労ってくれたありがたい言葉である。

私にとって山は自分を構築する上で非常に大事なキーワードである。前述のように、登山という行為が無ければ今の私は存在しない。

しかし、家族と仕事が私を構築しているのも事実であり、大事な要素である。

登山者は山が好きで登山をする。入山する時はドキドキワクワク、自分しかホモサピエンスが存在しない世界を思う存分骨の髄までシャブリ尽くしてやろう、などと考えていると世の中の人は考えているかもしれない。

本当のところ「帰りたい」と思う事がよくある。

バックパックの中を開ければ、モワンと洗濯用洗剤の香りが漂う。その瞬間に想うのは妻の顔であり、道具を入れたスタッフバッグの中には、私が不在の間にコッソリ入れたのであろう、娘が私の部屋に侵入して入れた私物が入っていたりする。これから何十時間にも及ぶ「家族」との断絶と命を落とすかもしれない自然環境に入り込むこととなれば「今なら帰れるな」と思わないわけがない。

それでも山に入るのは、私を構築する要素が「本当に大事だと心から実感する」ためである。家族からしたら「旦那は家族より山が大事」としか見えないが、実はその逆である。

山と家族の関係は強い繋がりがあるが、仕事も山とは切れない関係がある。
それは「文明との繋がりと表現行為」として存在しているからである。

仕事とは山が遠ざかる要因として思われがちだが、そうでもない。私の職業は福祉職である。児童養護施設で勤務しているのは「社会は親と共に子育てを担うべき」という考えを最も具現化した場所であり、私の意思を現実化した事で対価を得られる「ありがたい空間」が仕事だ。

個人的な考えでは現職は仕事ではなく、一次産業、二次産業あたりを仕事として認識もあってか、好きなことを給料を貰ってさせてもらっている、という意識を持っている。山で得た体験を仕事で活かすことで、人生は非常に豊かになり「早く次の山に行きたい」というモチベーションにも繋がる。

つまり山を構成するのは、その場に見える山容だけではない、家族や仕事の繋がりを含めて山であり、これの内どれかが欠けては、私は山に登る意味を失うことになりかねない。

KIMG2261


2週間ほど前「行きたい山に行けなくて大変ですね」と声をかけてくれた人に私が伝えたのは「僕が選択したことなので」という返事である。

山も、家族も、仕事も、全て私が選んだことであり、私が行動した結果の末の現象が今起きている。そのため、私は大変と思うことはない。これまで「結婚したら好きなことが出来なくなる」と言う人を見てきたし、昔はそんなことに私も怯えていたが、そういう風に考えたり選べなくなる人もいるのかと、最近は思ったりしている。

山、家族、仕事は、どれもバランスが大事だ。どれかが欠けてはいけないし、偏りすぎてもいけない。

登山者の三大北壁というのは一見して登頂困難な絶壁である。しかし、時を経ても変わらぬ美しさを放ち、登頂ルートは無数に存在している。

登山者にとって、自分を構築する全てが山であると思うと、家族も仕事も悪いものではないだろう。


ブログランキング・にほんブログ村へ