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少年時代、実家では犬を飼っていた。

幼少期から高校卒業頃までシェルティを、以降はチワワを飼っており、犬との生活は私の人生において切っても切り離せないものと気づいたのは、一人暮らしを始めて数年が経過したときである。

純粋無垢で、偽るということを知らない犬との生活は、自然と気持ちと気持ちがフィルター無しでぶつかる事の繰り返しとなり、築かれる関係は、人対人のそれより、時に厚く、堅い絆で結ばれることとなる。
気が付けば部屋を散らかそうが大事な音楽プレイヤーを破壊されようが、飛びついてベロベロと愛撫されようが、それが犬の気持ちの全てと分かっていると、なんだか憎めない。

そんな犬との生活がぽっかり空いた数年後、妻と動物を飼いたいという話が出てきた。
妻は実家で小動物を飼っていたので、住空間に人間以外の生物が同居することを望み、私もそれに同意した。実子が欲しいという欲もあったが、経済的にもタイミング的にもそこには至っていなかったことが、動物を飼いたいという気持ちに拍車をかけていた。

ペットショップを見ては、あぁでもないこうでもないと検討する日が続く。

動物とのマッチングは運である。綺麗に取り繕われた子犬を見ても、妻の反応はイマイチだったことがそれを物語っている。私はあまり動物的勘を働かせることが苦手で、常に情報を元に判断することが多い人間だが、ほぼ全ての事象を動物的勘と感情で生きる妻には、私が「この犬は飼いやすいよ」「大きくなったら大変だよ」と伝えても、それは馬の耳に念仏なのである。

運命の日が来たのは冬の寒い雨が降っていた時の事。

この日はペットショップツアーを組み、半日を使って店を回っていた。もう1件見てみようかといった最後の店で、歩きだしてはコテンと尻もちをつくどん臭いコーギーがいた。気が付けば妻はそのどんくさコーギーにくぎ付けになり、その場を動かない。店員さんに頼んで膝に乗せてもらうと、最早テコでも動かない。どんくさコーギーも、小さな体で一生懸命じゃれている。自己PRが得意なタイプのようだ。

「飼おうよ。」と妻に提案すると「えっ」という反応。他人事には強気な姿勢を崩さないが、自分事となると優柔不断が全面に展開されるのが妻だ。こうなると飼うのを止めたら1週間はこの迷いが続くことになる。「やっぱり飼った方が良かったのか」「なんで決めてくれなかったんだ」と、最後には責任転嫁という宝刀を抜き、決断までの迷宮に夫を巻き込むのは間違いない。優柔不断という壁を丁寧にジェンガのように形を崩していき、妻もようやく決断。晴れてどんくさコーギーは我が家に迎え入れられることとなった。

綺麗なリボンを付けてもらい、花嫁にでも行くのかと思われるほどドレスアップされた子犬は、息子が生まれたら命名しようと思っていた名前が付けられた。

それからすくすく育ち、彼は共に山を登り、鹿糞を食べ、野性味溢れる日本男児に成長している。
尻をついていたどんくさい姿は無くなり、コーギーかと疑うほどのスマートな体と、俊敏な動きを兼ね備えたアスリートに成長した。

彼との生活についてはまた今度。

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