記憶の山

登山の記録と記憶 児童養護施設で働いています。その考察を記録しています。

児童福祉

プロ宣言のその後

2023年1月11日にプロの児童養護施設職員であることを宣言をした。
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それから何が変わったかというと、私生活上は大きな変化はなく、海と山が程近いのどかな町で妻と娘2人、愛犬と絵に描いたような家庭生活を送っている。

長女は妻に似てきたのか、人の枕を勝手に使うなとか、私が出た直後のトイレで用を足せば鼻をつまんで出てくるなど、順調に生物学的に父親を嫌悪する道を進んでいる。

そんな娘の幼稚園バスの迎えに同行し、娘と幼稚園バスの先生、子どもたちに一笑い作ろうものなら「他のパパを見習ってほしいもんだわ」と妻に言われ、砂糖に群がるアリを見るような瞳で夫を見つめているところからして、私のスタンスは一般社会とボタンをかけ違えた養育をしているのではと、最近薄々と感じている次第であり、どこか妻や娘が私を蔑む姿勢を崩さないところの原因を感じているのである。

とはいえ、軌道修正しようものならそれは私の人格に引っかかる部分でもあるため容易に行えるものではない。私が全裸で体重測定をしているのを妻に目撃されたことを娘が友達に嬉々として話していたことを先日知り、こんな阿呆な父でも根本は好いていると信じ、家庭生活を私なりエンジョイしようと日々を送っている。

話を戻し、私生活ではほとんど変化はないが、仕事では色々と変化が起きている。

まず、私が掲げるプロとは以下のことを基本としている。

1.対象者から逃げずニーズに最高のケアで応え続けていく
2.スポンサーメリットを理解し成果を上げていく
3.目標を掲げ達成し成長していく

以上に基づいて仕事をするようになると、児童養護施設や児童福祉の問題というものが、嫌でも見えるようになってくる。

「権利」「養護と養育」「予算」「法人」「採用」「既得権益」など、ひとつひとつが重く、児童福祉が抱えていた課題が矢のように降り注いでくる。これまで逃げるのは簡単だったが、もはや見てしまったので抗うことはできない事態に発展しているので、覚悟して臨む以外に道はない。

これらを解決するために動くため、八方美人でコーティングした様なこれまでの姿勢は崩れ落ち、職場では言い切ることが増えた。

発言には論拠が求められ、もちろんその言葉に納得する人ばかりではない。それはこれまで個人見解を伝えて上手い具合に予定調和を測ってきたが、組織や行政の方針という、私が最も苦手と構成単位を意識し、チーム一丸となって物事を進めるために、こだわりやエゴを取り払って発言することになったため、敵にする人の数は明らかに増えたと感じている。

敵=嫌悪するもの、ということではない。相対することで高め合い、目標に向かっていける存在である。
とはいえこっちも本気なのでイラッとするのだが、結果が良いものになれば、率直な議論は必要であり、そのための敵は歓迎したい。

そんな姿勢で仕事をしていたら、持ち時間である1日8時間は、私の全能力を以て効率化を図っているが足りず、最近欲しいものは何かと聞かれれば時間と答えるようになった。
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プロ発言をして以降、私の仕事ぶりを見た人から「死ぬなよ」と言われたことがある。妻からは原因は定かではない白髪の爆発的な増加をストレスと懸念され、健康診断は見事に引っかかり再検査を推奨されるなど、自分の危うさを客観的に指摘してくださる方も増えたが、止まったら本当に死んでしまいそうなので、今は止まらないようにしている。
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私はプロ児童養護施設職員であり、家族の一員であり、アウトドアライターである。このどれかが無くなれば私ではなくなるし、死んだも同然だ。36年とそこそこ生きて、やりたいことをしてきた私の思考がまとまって現在の活動をしている。この動きを止めれば、繰り返すようだが生に意味を見出だせない、文字通り死が待っている。

プロを名乗るようになり、間違いなく私の生活は変わった。刺激的になり、突き進んでいけば良い生が送れそうだ。


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食べて寝て:児童養護施設における食事の大切さを考える

食べる・寝る・うんこする。この3つが上手くいくと、その登山は成功となる。山を登り始めて10年以上経つが、どこかで聞いたこの言葉は、私の生活における指針のひとつとなっている。

日常生活にも当てはまるこの3点のキーワードは、登山においては非常に重要な要素と言っても過言ではない。

食事が上手くいかなければ生命活動を維持できないので登山が難しく、寝ることができなければ十分な休息を得られない。さらに排泄行為が正常に出来なければコンディションは悪化し、長期的な行動は困難になる。
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個人的な事情だが、私は便秘になりやすく、ウンコをするには「大食いして押し出す」か「便秘薬やファイブミニなど、貨幣を利用して文明の力を利用する」ことをしなければならず、放っておけば2日、3日はうんこに時間を要してしまう。毎日自力で快便するは私の目標でもあり「お前のウンコに金をかけるのか」と妻の遠回しの言葉もぐさりと胸に刺さりつつ、目標達成に向けて励んでいる。

仕事においても同様で、私の勤める児童養護施設は子ども達が生活をしている施設であるので、3食食べたか、睡眠は十分に取れているか、排泄は行えているかを把握するのは子どもを支援する上でとても大事なポイントだ。

食事・睡眠・排泄はそれぞれが密接に関係している。

長時間の行動が常である登山においては、行動中に摂取する行動食から休憩時の食事まで、行程に応じた食料を選択していくのだが、行動中であれば軽くてハイカロリーなものが好まれ、休息時の選択は広く、日帰り登山であれば割と自分の好きな食べ物を選んで身も心も満たされる食事を行う。私は休息時はもっぱら米を炊き、おかずは好きなものを調理するスタンスが多く、食事へのストレスは少なく、とにかく安心する。宿泊山行であれば食事の後の昼寝は最高の癒やしタイムだ。


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私が大切にしているのは、好きなもの出来立てで適度に食べる、ということである。前置きが長くなったが、私の勤める児童養護施設では、この好きなものを出来立てで適度に食べることが、子ども達をケアする上で重要な方法となっており、今回はその重要性を記しておく。

適量の栄養を摂取しなければ排泄が上手くいかない、それに伴って変調をきたし、睡眠、食事に影響してくるなど、学生時代に学ぶ科学的なことを把握することも大切であるが、好きなものを食べて満たされた気持ちで眠ることは、山でも街でも翌日の行動に大きく影響してくる。

今年36歳を迎えるのだが、情けないことに未だに気持ちが萎えてしまう食材がある。職場の食事にグリーンピースが入っていると気持ちが落ち込んでしまうし、プロセスチーズは「◯◯くん、これ好きだろ?」と子どもに譲渡してしまうこともしばしば。昼食は1日の過程であるのでまだ我慢できるが、夕食にグリーンピースが出てこようものなら、心の重力が2倍になり、その日は仕事ができなくなる。

これは子どもも同様である。夕食にアジの干物が出ると、普段は飯を大盛りで食べるわんぱくっ子も「今日はお腹空いてないんだ」と誤魔化して半分に減らし、野菜炒めを出せばピーマンだけが綺麗に残るグリーンオーシャンが皿に広がっている。

「そんくらい食えよ」とは、大人になった今となっては感じてしまうし、好きなものだけを食べ続ければ体調も安定しないので、やはり食べてほしいのが保護者や保護者代わりである我々の気持ちだ。

では、ここでいう「好きなもの」というのはなんだろうか。

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もちろん、自分が好ましい食感や香りというものはあるし、好きなものというのは基本的にそういうことなのだが、場所や時間も大事だし、特に大切なのは「誰が作ったか」ということである。

標準的な美味い、不味いはあるものの、時に深い関係を築いている人間が作る料理は、標準的な美味しい基準とはかけ離れた特別な基準がある。関係が深まれば深まるほど記憶に残り、その料理を口にすることで、生涯を貫く大きな糧となっていく。

人間を形作るものは、その人間が口にしたものに他ならない

相手を理解することは、決して会話やスキンシップだけではない。料理を取り込むことで、相手の思考や配慮が伝わってくる。食材が綺麗に盛られているか、嫌いな食材は細かくされ分かりづらかったり、猫舌なので少し冷ましてから提供するといった、始めはただ美味しかっただけの料理が、経験を重ねるにつれ、自分だけの特別なものに変わっていく。

そして児童養護施設の子ども達にとって最も大切なのは、特別な存在である担当職員が作る食事である。

児童養護施設に入所する子ども達の全てではないが、養育者たる親からの食事を食べた経験が少ない。メディアでも報道されるような養育放棄(ネグレクト)から、子ども達は食事から受ける親の愛情を受けることができないでいた。

自分好みの味、食べやすいサイズに切られた食材、帰宅時間に合わせた食事の提供、どれも無言で示された親の愛情である。児童養護施設で提供すべき食事とは、施設形態の事情こそあれど、本来はこの愛情表現を示す提供方法でなければならない。

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私の施設では、地域小規模の居室を除く本体施設で約10年間、職員が手作りで昼食以外の食事を提供していた(現在も朝食と一部の弁当は残っている)。食材を切る音と匂いで「今日は何作ってるの?」と、遊びの手を止めてやってくる子どもがいたり、フライパンを振る姿を見て「自分もやりたい」と言う子どもがいたりと、当たり前のようで大切な瞬間があった。

時には「あいつの飯は食べたくない」とへそを曲げて部屋に籠もる子「まずっ」と言われ、明日への活力となる食事がモチベーションを井戸の底より暗い暗闇に落とす要因になることもあったが、それでも食事を作り続ける姿勢と、出直して次の食事は美味しい食事を作ることで、少しずつ子どもとの関係を深めていくことに繋がった。

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食事は子どもにとって無意識の愛情を受け取る行為であり、それは食事を提供する職員も同様である。子どもが自分の食事を受け入れて評価を受ける瞬間は、至高の喜びに他ならない。

私も職員を続けてきて、手作りで調理を提供することを当たり前と思えて特段の意識をしていなかったが、現在は施設の方針転換で集団調理に戻ってしまい、その光景が無くなって2年、あの当たり前がどんなに愛おしかったかを痛感している。

先日、とうとう私もへそを曲げてしまい、愛用の中華鍋を持ち込んで本気の炒飯やら餃子やらを作ってみたところ、2年前にあった光景が戻り、大盛りの飯を数分で平らげる子どもを見て泣きそうになってしまった。

そうして幸せなまま布団に入る子ども達を見ると、1日が穏やかに終わったと実感する。その後は食器洗いや掃除、パソコンを叩き続ける業務に追われ、疲労によって昇天しそうになるが、自分の食事で空になった器を洗うことはどこか気持ち良く、掃除も苦にはならない。

私は100%個別調理推進派であるが、集団調理が無意味とは思わない。適切な栄養管理衛生管理が徹底された安全な食事、必ず提供してもらえる安心感は、子ども達にとっては必要な食事環境である。ただ、家庭環境により近い施設環境を目指している現代においては、皮肉にも住環境を始めとした養育環境が目指すものに近づくにつれ、ミスマッチが起きているのが現実だ。各施設が目指す支援方針を見直す必要があるほど、食事の提供方法は大きな問題である。

一般社会でも、決して冷凍や既製品を否定するわけではない。私も弁当を作る時は冷凍食品を多用するし、誰もが調理技術を備えているわけではないことも理解している。既製品のミードボールを見れば今でも自然と手が伸びてしまい、チキチキボーンは小学校の運動会の時に必ず入っており、目を閉じてチキチキボーンを食べれば、いつでもあの頃に戻れるほどだ。

惣菜で夕食を済ませたって良いのだ。ただその中に1品、自分で作れる何かが入っていれば良い。味噌汁も顆粒の出汁と味噌を溶かして出すだけで十分で、その味付けは必ず子どもは覚えてくれている。

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食事・睡眠・排泄は、幸福な生涯を送るために必要不可欠な要素だ。この3要素は常に循環し、サイクルの始まりともいえる食事の質を上げることは、より良質なサイクルを生むことになり、私が勤める児童養護施設の子ども達には特に必要な支援となっている。

大好きな人が美味しい料理を作ってくれる。これほど幸福なことがあろうか。全ての子ども達に提供されることを願うばかりである。
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【報告】児童福祉メディア

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児童養護施設職員、また児童養護施設を目指す方に向けたメディアサイトをオープンしました。

なかなかニッチなサイトですが、自分が知りたいと思う情報をいつもネットをウロチョロして探すか、時間をかけ研修に行ったりですぐに入手できないことがあったので、知りたい情報をすぐに見れるサイトを作りたいと思い、立ち上げました。

地道に更新していくので、良かったら立ち寄ってみてください。

児童福祉メディア


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個人と社会の矛盾

山を登るようになって10年以上になる。
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始めは整備された自然の中を歩き、気が付けば沢を遡行し、道なき道を登り、藪をかき分けるという、無調整の自然を苦悶の表情で傷だらけになって登るという苦行を好むようになった。

整備された自然というのは、人の手が加えられた自然環境を指し、キャンプ場や登山道がこれにあたり、ここから一歩出れば、そこは未整備の自然が待っている。去年歩いた場所が歩けなくなっていたり、地形が大きく変わっていて沢の渡渉が必要な場合や、登攀を余儀なくされることも珍しくない。

そんな不安と向き合いながら自分だけの道を作っていく作業は、芸術と呼ぶに相応しく、不器用で美術が中学時代常に5段階中2を維持し、自画像を描けば「これは腕(素質)が悪い」と、適切なアドバイスがもらえないほど絶望的な技術を有する私にとって、登山で自らを表現するというのは、今後も切ってはならない表現技法なのである。

私が登山を始めた頃は、まだSNSやiPhoneが普及する少し前であったので、山を登りながら自問自答し、社会でインプットされた大量の情報を山で整理し、自分という意思を確固たるものに近づけていく事によって、世の中と自分という存在を認識し、山での体験は混じりっけと偽りがなく、自然は人間の思惑が及ばない空間であることに喜びを覚えることとなるという、現在の自己表現とは別の、自己の確立というために登っていたのだろうと、今になって思う。

思考し、表現し、経験する。そんな当たり前(だった)が社会ではやりづらい。


多様性という言葉をよく聞くようになり、私の周りでは、固定観念に囚われた人間を「考え方が古い」と断じられるのが日常になりつつある。

登山は多様性とは親和性が高い。自然というフィールドの中では、社会の中で役に立つ学歴や肩書きは役に立たない。肩書があれば山に登れるわけではないし、安心してパーティを組んで難関を突破もできない。とことん個人の能力が問われる世界は、一見して残酷ではあるものの、人種、国籍、性別、社会的優劣を越えていく山登りは、それこそ古い考え方(情報)を持っていては遭難し、価値観に囚われていては登山そのものが窮屈になる。

だからこそ、表現技法としての登山は洗練されていて魅力的である。

一方、社会ではどうか。
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経済を上手く回すために消費が促され、情報は操作され、いかにも個人の意思で選択したかのように見せかけ、満足するように出来上がっている。「お金を貯めてマイホーム」なんていうのは典型的な例であり、CMというのも消費を促すためには手っ取り早い手法である。

とはいっても、私もお金を貯めてマイホームが某海外ブランドのチキンと同じ様に遺伝子レベルで刷り込まれているので、家を買って幸福感は感じたし、CMを見てゲームソフトを親に購入を懇願した人間であるし、ポケモンが流行ったときは、どこを見渡してもポケモン一色であったので、個人の意思が実は情報操作による大衆の意思であったとしても、それで良いという選択をすれば、それはそれで良いんじゃなかろうかと思ったりもする。

しかし、最近は多様性の裏で、社会がそれを否定する構造になっているのは引っかかる。

多様性といっても様々で、生物的多様性という点では、野外で起きた外来種と在来種の交雑を認めず、飼育に交雑は認められているというのはどうなのだろうか。労働でいえば、個の能力や適性を考慮した形態を取っていいものだが、体裁は「個々に合わせた働き方を」と言いつつも、未だに年功制で個々に合わせた働き方など皆無な現状もある。

こうした社会の矛盾に苦しんでいるのは今を生きる子ども達であり、私の少年時代に比べて、大分生きづらい世の中になった。

情報が氾濫、いつでも入手できるようになり、意思疎通が瞬時に可能となった現代で、少年時代の私が自ら思考し、決断できる人間であれただろうか。きっと、善悪をはっきり区別してくれたほうが楽だという思考になったかもしれない。

それは今の政治によく現れているし、考える隙など与えない姿勢は、生物的多様性、社会の労働環境など多方に考慮すると、果たして多様性を育む環境にあるのだろうか。そして、それは社会が持つ多様性の矛盾でもある。

この矛盾に抗うにはどうしたら良いだろうか。
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今思うのは、一度情報から離れてみるというのが必要だろうということだ。

になり、自分の意思と向き合い結論づけることは、個人的に多様性を育む上では、大人こども関係なく必須である。そもそも自分の意思なくして、他者を理解し、受け入れることなど不可能だ。思考の海(ネットワーク)から離れることは、大きな効果があるだろう。

自分を自分と認識し意思を持つには、非常に多くの情報や体験が必要だ。

他人とを隔てる顔と声、生まれてからの記憶、起きた時に見える世界、未来の予感。

人が情報に触れられる世界になったとはいえ、個人の意思=ネットとはなっていない現在、情報のよって個人の意思が塗り替えられ、声や顔が変えられ、情報もまるで自分の部品のように取り入れ、体験していないことも容易に偽れるようになったことの弊害は、人がネットワークを誤った使い方で進歩させてきた結果なのかもしれない。そんな中で大切なのは、自分を自分と定義できる、自分だけの経験なのだ。

余談だが、私が働く児童養護施設は、こうしたネットワークへの対応や自分を定義づけるための体験に非常に弱い。人員や予算の問題ということや、生み出した文明に人間自体が追いついていないという、これまた悲惨な経過を辿っている。ぜひ、児童養護施設に予算と人をより充てて頂きたい。


話を戻して、自分だけの経験の獲得とその必要性を感じたのは、ボランティアで何度か足を運んでいる子ども達とのキャンプだった。

目の前にある世界(限られた情報)を取り入れ、その手で触れ、生や願望に向かって行動していく体験は、否定や肯定を超越した感動がある。それぞれが思考して行動する姿はなんとも逞しく、情報を持っている人から聞き出し、それを自らの行動で実証、落とし込んでいく光景は、35歳になるオジサンとしてはなんだか嬉しくなってしまう。

チームプレーも時に必要であるが、個人が努力し導き出した結果が集まることで最良の結果が生まれる経験も、正に多様性が生み出すひとつの形なのだろうと思ったり。
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そして私は福祉に携わる人間であるので、最後に気にするのは、全ての人間が社会が望む多様性に適応できるわけではない、ということについてだ。

他者を理解し受け入れ、自分自身も発信していく力というのは、誰しもが身につけられるわけではない。

感覚的だが、ゆっくり、しかし確実に、適応できない個人への支援は難しくなってきている気がする。

文明の進化(出来るなら試さずにはいられないヒトの性であり、否定できない)と多様性は難しい問題であり、今その歪みが生まれている。

個人と社会の矛盾を、これからも考えていきたい。

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児童養護施設のDX【デジタルトランスフォーメーション】

新型コロナウイルスによって社会は大きく変化した。
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「田舎」に分類される私の地域は、都市部から移住される方が多くなり、昔ながらの瓦屋根の平屋のそばに、真新しい新時代の平屋が誕生、工場跡地は更地になり「何が建つのやら」と思ったが、見事に住宅地に変貌している。

そもそも私は今住んでいる地域を田舎と思ったことはない。報道で「都心から近い田舎特集」にノミネートされ、どうやらここは田舎らしいと自覚したことがきっかけだ。


これまで生計を立てたり、望む仕事をするには不向きとされていた田舎が注目されている要因は、無論「デジタル」の力が大きい。

テレワークが推進され、数字的には十分なものではないが都心部では急速に普及し始め、外に出ずとも商品が購入できるオンラインショッピング、書類の電子化、脱ハンコ文化など、これまで「慣習」とされていたことにも、新型コロナウイルスにより変貌した。


社会が変化している時、児童福祉では何が起きているだろうか。

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「社会の一歩後ろを行く」という言葉を、イチ現場職員の私はいつも脳裏を音速でよぎる。

私は外部との連絡は基本的にメールやビジネス用のSNSだが、外部とのメールが出来ないからと電話してくる機関がある。打ち合わせの日程を組むのに数日を要し、連絡がないので「日程の件どうなりました?」と確認の電話を入れたら「あっ・・・」と言われ、頭を抱えたことがある。

どの組織にも恐らく社内SNSはあるものの、大半は職場に固定設置されているPCでしかアクセスできない。結局、外で仕事をする際には紙にして資料を持っていく手間が発生し、外で紙に書いた記録は職場に戻りデジタルの記録に残さなくてはいけない。

平成13年には電子署名法が施行され、印鑑や手書きの署名でなくても、電子署名が同等の効力を得ることが認められているにも関わらず、ここでも紙に起こして印鑑を押し、また印鑑をもらうというアナログ環境が未だに続いている。

さらにはデジタルスキルが慢性的に不足している。致し方ないことであるが、現場職員は1日の勤務時間を全て児童対応に充てている。子どもが学校、幼稚園で不在の時は、仕事ではなく休憩時間に充てなければシフトを回すことは出来ない。こうした状況では「パワーポイントで資料作り」「コーポレートサイトを作って法人の認知を上げる」なんてことは、令和の世において夢物語である。

組織風土としても、デジタルツールを活用して変革した施設は少ないだろう。どこでも連絡、簡易的な意思疎通が図れ、データも組織の全員に素早くオープンに出来るようになった環境では、これまで存在していた「現場と管理職繋ぐ」中間管理職は不要である。年功制が大半の福祉施設では、コストがかかるだけの名ばかり職員は、若手職員の非難を浴び、いずれ居場所を失っていく。その若手職員もいずれそうなる運命にあるのだが。


生活する子どもも同様だ。


デジタル社会において重要なことは生身で感じる「経験」である。

「あなたはあなたで良い」事が認められつつある多様性が浸透されつつあるが、映画やレストラン、商品などには「レビュー」が表示され、食べてもいない料理を「美味しくない」と、自分の意見のように判断する人が増えている。

SNSでは「白か黒か」といった発信が続けられ「悩み」「思考する」機会が減少しつつある。短文でインパクトのあるテキストや動画を残そうとすれば自ずとそうなるが、ここでも他人の意思が自分にすり替わり「実際に会ってみたら良い人だった」「行ってみたら綺麗な場所だった」という経験を失わせている。


子どもたちは思考する必要が無い(させない)デジタル社会を生きている。施設職員に必要なのは、自分がこの世に確かに生きている「実感」「感触」であり、時に上手くいかず、学校を始めとしたコミュニティで生じる「摩擦」も、子どもたちに提供しなければならない「環境」である。

デジタル化に伴う子どもや社会の変化を追うことは、児童養護施設は難しい環境にある。支援者としての技術は突出しているが、目まぐるしく進化する情報技術を把握しながら生活に反映させることは、現状では専門外である。情報は報道などで追うことは出来る、それを現場にアウトプットすることは難しいだろう。



デジタルが基盤となった社会における児童福祉施設における課題は、挙げればキリがない程だ。

では、何を変えていくのか。

それがDX(デジタルトランスフォーメーション)である。

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ざっくり言えば「IT技術を使って組織、技術を変革させること」である。ペーパーレス化すれば良いとかデジタルツールを導入すればお終い、というわけではない。技術を導入することで組織や個人を変容させることが大切だ。

「限られた時間で生産性と効率化を最大化させ、現場の子どもたちにコミットする環境を構築する」ことが、児童福祉施設におけるDXの目的だ。


慢性的な人手不足に陥っている児童養護施設は、本体施設はさることながら、長期持続可能(サスティナブル)な組織体制を確立する事が急務だ。そのために「人材を確保する」ことは変わらずの施策ではあるものの、それだけでは足りない。

旧態依然とした体制が今後も続けば、人材を確保しても定着せず、再び人材確保の無限ループがやってくる。

組織内には「無駄」が溢れている。

①職場に管理職がいなければ承認されない案件の山
②未だに続く現金決済
③「次の会議で決めよう」と、何十日も進まない議論の数々
④データ化されずにいる紙資料の保存で利益が上がらず、活用されていない土地
⑤外部MTGのための往復の車移動。

こうした問題以外にも、先述したように問題は山積みだ。だがここにある問題は、組織を見直してデジタル技術を活用すれば長期的な効果が見込め、個々の意識が変化すれば今すぐにでも実行可能なものもある。

子どもたちの生活にも、職員が意識すれば変革していけることは多い。デジタル社会において必要な「素早い情報の入手」「経験」の提供には、移動手段や環境の提供が必要である。紙媒体では劣化が早く、閲覧できる情報が「古紙回収」という名で失われる新聞ではなく、タブレットを導入していつでも情報を入手できたほうが良い。(新聞の購読者層は高齢化しており、発行部数も十数年前に比べて大きく減っている)

経験の場を得るには、正直予算が必要で長期的な施策となる。これには行政の理解が必要だ。習い事には未だ児童の資産で費用が捻出されている現状にあるので、この裾野を広げるだけでも効果は高い。組織が変革すれば、自ずと休日や日々の外出も増えるだろう。

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児童養護施設は旧態依然とした体制が続いている。十数年前、恐らく数多の施設がPCやシステムを導入しているが、職員や組織体制までの変革に至らず、不具合を起こしていることと察する。
子どもたちへの利益を最大化するために、DXは必須だ。個人が、組織が変革することで、児童養護施設はこれからの時代に適用できるだろう。


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