食べる・寝る・うんこする。この3つが上手くいくと、その登山は成功となる。山を登り始めて10年以上経つが、どこかで聞いたこの言葉は、私の生活における指針のひとつとなっている。
日常生活にも当てはまるこの3点のキーワードは、登山においては非常に重要な要素と言っても過言ではない。
食事が上手くいかなければ生命活動を維持できないので登山が難しく、寝ることができなければ十分な休息を得られない。さらに排泄行為が正常に出来なければコンディションは悪化し、長期的な行動は困難になる。
個人的な事情だが、私は便秘になりやすく、ウンコをするには「大食いして押し出す」か「便秘薬やファイブミニなど、貨幣を利用して文明の力を利用する」ことをしなければならず、放っておけば2日、3日はうんこに時間を要してしまう。毎日自力で快便するは私の目標でもあり「お前のウンコに金をかけるのか」と妻の遠回しの言葉もぐさりと胸に刺さりつつ、目標達成に向けて励んでいる。
仕事においても同様で、私の勤める児童養護施設は子ども達が生活をしている施設であるので、3食食べたか、睡眠は十分に取れているか、排泄は行えているかを把握するのは子どもを支援する上でとても大事なポイントだ。
食事・睡眠・排泄はそれぞれが密接に関係している。
長時間の行動が常である登山においては、行動中に摂取する行動食から休憩時の食事まで、行程に応じた食料を選択していくのだが、行動中であれば軽くてハイカロリーなものが好まれ、休息時の選択は広く、日帰り登山であれば割と自分の好きな食べ物を選んで身も心も満たされる食事を行う。私は休息時はもっぱら米を炊き、おかずは好きなものを調理するスタンスが多く、食事へのストレスは少なく、とにかく安心する。宿泊山行であれば食事の後の昼寝は最高の癒やしタイムだ。
私が大切にしているのは、好きなもの出来立てで適度に食べる、ということである。前置きが長くなったが、私の勤める児童養護施設では、この好きなものを出来立てで適度に食べることが、子ども達をケアする上で重要な方法となっており、今回はその重要性を記しておく。
適量の栄養を摂取しなければ排泄が上手くいかない、それに伴って変調をきたし、睡眠、食事に影響してくるなど、学生時代に学ぶ科学的なことを把握することも大切であるが、好きなものを食べて満たされた気持ちで眠ることは、山でも街でも翌日の行動に大きく影響してくる。
今年36歳を迎えるのだが、情けないことに未だに気持ちが萎えてしまう食材がある。職場の食事にグリーンピースが入っていると気持ちが落ち込んでしまうし、プロセスチーズは「◯◯くん、これ好きだろ?」と子どもに譲渡してしまうこともしばしば。昼食は1日の過程であるのでまだ我慢できるが、夕食にグリーンピースが出てこようものなら、心の重力が2倍になり、その日は仕事ができなくなる。
これは子どもも同様である。夕食にアジの干物が出ると、普段は飯を大盛りで食べるわんぱくっ子も「今日はお腹空いてないんだ」と誤魔化して半分に減らし、野菜炒めを出せばピーマンだけが綺麗に残るグリーンオーシャンが皿に広がっている。
「そんくらい食えよ」とは、大人になった今となっては感じてしまうし、好きなものだけを食べ続ければ体調も安定しないので、やはり食べてほしいのが保護者や保護者代わりである我々の気持ちだ。
では、ここでいう「好きなもの」というのはなんだろうか。
もちろん、自分が好ましい食感や香りというものはあるし、好きなものというのは基本的にそういうことなのだが、場所や時間も大事だし、特に大切なのは「誰が作ったか」ということである。
標準的な美味い、不味いはあるものの、時に深い関係を築いている人間が作る料理は、標準的な美味しい基準とはかけ離れた特別な基準がある。関係が深まれば深まるほど記憶に残り、その料理を口にすることで、生涯を貫く大きな糧となっていく。
人間を形作るものは、その人間が口にしたものに他ならない
相手を理解することは、決して会話やスキンシップだけではない。料理を取り込むことで、相手の思考や配慮が伝わってくる。食材が綺麗に盛られているか、嫌いな食材は細かくされ分かりづらかったり、猫舌なので少し冷ましてから提供するといった、始めはただ美味しかっただけの料理が、経験を重ねるにつれ、自分だけの特別なものに変わっていく。
そして児童養護施設の子ども達にとって最も大切なのは、特別な存在である担当職員が作る食事である。
児童養護施設に入所する子ども達の全てではないが、養育者たる親からの食事を食べた経験が少ない。メディアでも報道されるような養育放棄(ネグレクト)から、子ども達は食事から受ける親の愛情を受けることができないでいた。
自分好みの味、食べやすいサイズに切られた食材、帰宅時間に合わせた食事の提供、どれも無言で示された親の愛情である。児童養護施設で提供すべき食事とは、施設形態の事情こそあれど、本来はこの愛情表現を示す提供方法でなければならない。
私の施設では、地域小規模の居室を除く本体施設で約10年間、職員が手作りで昼食以外の食事を提供していた(現在も朝食と一部の弁当は残っている)。食材を切る音と匂いで「今日は何作ってるの?」と、遊びの手を止めてやってくる子どもがいたり、フライパンを振る姿を見て「自分もやりたい」と言う子どもがいたりと、当たり前のようで大切な瞬間があった。
時には「あいつの飯は食べたくない」とへそを曲げて部屋に籠もる子「まずっ」と言われ、明日への活力となる食事がモチベーションを井戸の底より暗い暗闇に落とす要因になることもあったが、それでも食事を作り続ける姿勢と、出直して次の食事は美味しい食事を作ることで、少しずつ子どもとの関係を深めていくことに繋がった。
食事は子どもにとって無意識の愛情を受け取る行為であり、それは食事を提供する職員も同様である。子どもが自分の食事を受け入れて評価を受ける瞬間は、至高の喜びに他ならない。
私も職員を続けてきて、手作りで調理を提供することを当たり前と思えて特段の意識をしていなかったが、現在は施設の方針転換で集団調理に戻ってしまい、その光景が無くなって2年、あの当たり前がどんなに愛おしかったかを痛感している。
先日、とうとう私もへそを曲げてしまい、愛用の中華鍋を持ち込んで本気の炒飯やら餃子やらを作ってみたところ、2年前にあった光景が戻り、大盛りの飯を数分で平らげる子どもを見て泣きそうになってしまった。
そうして幸せなまま布団に入る子ども達を見ると、1日が穏やかに終わったと実感する。その後は食器洗いや掃除、パソコンを叩き続ける業務に追われ、疲労によって昇天しそうになるが、自分の食事で空になった器を洗うことはどこか気持ち良く、掃除も苦にはならない。
私は100%個別調理推進派であるが、集団調理が無意味とは思わない。適切な栄養管理と衛生管理が徹底された安全な食事、必ず提供してもらえる安心感は、子ども達にとっては必要な食事環境である。ただ、家庭環境により近い施設環境を目指している現代においては、皮肉にも住環境を始めとした養育環境が目指すものに近づくにつれ、ミスマッチが起きているのが現実だ。各施設が目指す支援方針を見直す必要があるほど、食事の提供方法は大きな問題である。
一般社会でも、決して冷凍や既製品を否定するわけではない。私も弁当を作る時は冷凍食品を多用するし、誰もが調理技術を備えているわけではないことも理解している。既製品のミードボールを見れば今でも自然と手が伸びてしまい、チキチキボーンは小学校の運動会の時に必ず入っており、目を閉じてチキチキボーンを食べれば、いつでもあの頃に戻れるほどだ。
惣菜で夕食を済ませたって良いのだ。ただその中に1品、自分で作れる何かが入っていれば良い。味噌汁も顆粒の出汁と味噌を溶かして出すだけで十分で、その味付けは必ず子どもは覚えてくれている。
食事・睡眠・排泄は、幸福な生涯を送るために必要不可欠な要素だ。この3要素は常に循環し、サイクルの始まりともいえる食事の質を上げることは、より良質なサイクルを生むことになり、私が勤める児童養護施設の子ども達には特に必要な支援となっている。
大好きな人が美味しい料理を作ってくれる。これほど幸福なことがあろうか。全ての子ども達に提供されることを願うばかりである。
日常生活にも当てはまるこの3点のキーワードは、登山においては非常に重要な要素と言っても過言ではない。
食事が上手くいかなければ生命活動を維持できないので登山が難しく、寝ることができなければ十分な休息を得られない。さらに排泄行為が正常に出来なければコンディションは悪化し、長期的な行動は困難になる。
仕事においても同様で、私の勤める児童養護施設は子ども達が生活をしている施設であるので、3食食べたか、睡眠は十分に取れているか、排泄は行えているかを把握するのは子どもを支援する上でとても大事なポイントだ。
食事・睡眠・排泄はそれぞれが密接に関係している。
長時間の行動が常である登山においては、行動中に摂取する行動食から休憩時の食事まで、行程に応じた食料を選択していくのだが、行動中であれば軽くてハイカロリーなものが好まれ、休息時の選択は広く、日帰り登山であれば割と自分の好きな食べ物を選んで身も心も満たされる食事を行う。私は休息時はもっぱら米を炊き、おかずは好きなものを調理するスタンスが多く、食事へのストレスは少なく、とにかく安心する。宿泊山行であれば食事の後の昼寝は最高の癒やしタイムだ。
私が大切にしているのは、好きなもの出来立てで適度に食べる、ということである。前置きが長くなったが、私の勤める児童養護施設では、この好きなものを出来立てで適度に食べることが、子ども達をケアする上で重要な方法となっており、今回はその重要性を記しておく。
適量の栄養を摂取しなければ排泄が上手くいかない、それに伴って変調をきたし、睡眠、食事に影響してくるなど、学生時代に学ぶ科学的なことを把握することも大切であるが、好きなものを食べて満たされた気持ちで眠ることは、山でも街でも翌日の行動に大きく影響してくる。
今年36歳を迎えるのだが、情けないことに未だに気持ちが萎えてしまう食材がある。職場の食事にグリーンピースが入っていると気持ちが落ち込んでしまうし、プロセスチーズは「◯◯くん、これ好きだろ?」と子どもに譲渡してしまうこともしばしば。昼食は1日の過程であるのでまだ我慢できるが、夕食にグリーンピースが出てこようものなら、心の重力が2倍になり、その日は仕事ができなくなる。
これは子どもも同様である。夕食にアジの干物が出ると、普段は飯を大盛りで食べるわんぱくっ子も「今日はお腹空いてないんだ」と誤魔化して半分に減らし、野菜炒めを出せばピーマンだけが綺麗に残るグリーンオーシャンが皿に広がっている。
「そんくらい食えよ」とは、大人になった今となっては感じてしまうし、好きなものだけを食べ続ければ体調も安定しないので、やはり食べてほしいのが保護者や保護者代わりである我々の気持ちだ。
では、ここでいう「好きなもの」というのはなんだろうか。
もちろん、自分が好ましい食感や香りというものはあるし、好きなものというのは基本的にそういうことなのだが、場所や時間も大事だし、特に大切なのは「誰が作ったか」ということである。
標準的な美味い、不味いはあるものの、時に深い関係を築いている人間が作る料理は、標準的な美味しい基準とはかけ離れた特別な基準がある。関係が深まれば深まるほど記憶に残り、その料理を口にすることで、生涯を貫く大きな糧となっていく。
人間を形作るものは、その人間が口にしたものに他ならない
相手を理解することは、決して会話やスキンシップだけではない。料理を取り込むことで、相手の思考や配慮が伝わってくる。食材が綺麗に盛られているか、嫌いな食材は細かくされ分かりづらかったり、猫舌なので少し冷ましてから提供するといった、始めはただ美味しかっただけの料理が、経験を重ねるにつれ、自分だけの特別なものに変わっていく。
そして児童養護施設の子ども達にとって最も大切なのは、特別な存在である担当職員が作る食事である。
児童養護施設に入所する子ども達の全てではないが、養育者たる親からの食事を食べた経験が少ない。メディアでも報道されるような養育放棄(ネグレクト)から、子ども達は食事から受ける親の愛情を受けることができないでいた。
自分好みの味、食べやすいサイズに切られた食材、帰宅時間に合わせた食事の提供、どれも無言で示された親の愛情である。児童養護施設で提供すべき食事とは、施設形態の事情こそあれど、本来はこの愛情表現を示す提供方法でなければならない。
私の施設では、地域小規模の居室を除く本体施設で約10年間、職員が手作りで昼食以外の食事を提供していた(現在も朝食と一部の弁当は残っている)。食材を切る音と匂いで「今日は何作ってるの?」と、遊びの手を止めてやってくる子どもがいたり、フライパンを振る姿を見て「自分もやりたい」と言う子どもがいたりと、当たり前のようで大切な瞬間があった。
時には「あいつの飯は食べたくない」とへそを曲げて部屋に籠もる子「まずっ」と言われ、明日への活力となる食事がモチベーションを井戸の底より暗い暗闇に落とす要因になることもあったが、それでも食事を作り続ける姿勢と、出直して次の食事は美味しい食事を作ることで、少しずつ子どもとの関係を深めていくことに繋がった。
食事は子どもにとって無意識の愛情を受け取る行為であり、それは食事を提供する職員も同様である。子どもが自分の食事を受け入れて評価を受ける瞬間は、至高の喜びに他ならない。
私も職員を続けてきて、手作りで調理を提供することを当たり前と思えて特段の意識をしていなかったが、現在は施設の方針転換で集団調理に戻ってしまい、その光景が無くなって2年、あの当たり前がどんなに愛おしかったかを痛感している。
先日、とうとう私もへそを曲げてしまい、愛用の中華鍋を持ち込んで本気の炒飯やら餃子やらを作ってみたところ、2年前にあった光景が戻り、大盛りの飯を数分で平らげる子どもを見て泣きそうになってしまった。
そうして幸せなまま布団に入る子ども達を見ると、1日が穏やかに終わったと実感する。その後は食器洗いや掃除、パソコンを叩き続ける業務に追われ、疲労によって昇天しそうになるが、自分の食事で空になった器を洗うことはどこか気持ち良く、掃除も苦にはならない。
私は100%個別調理推進派であるが、集団調理が無意味とは思わない。適切な栄養管理と衛生管理が徹底された安全な食事、必ず提供してもらえる安心感は、子ども達にとっては必要な食事環境である。ただ、家庭環境により近い施設環境を目指している現代においては、皮肉にも住環境を始めとした養育環境が目指すものに近づくにつれ、ミスマッチが起きているのが現実だ。各施設が目指す支援方針を見直す必要があるほど、食事の提供方法は大きな問題である。
一般社会でも、決して冷凍や既製品を否定するわけではない。私も弁当を作る時は冷凍食品を多用するし、誰もが調理技術を備えているわけではないことも理解している。既製品のミードボールを見れば今でも自然と手が伸びてしまい、チキチキボーンは小学校の運動会の時に必ず入っており、目を閉じてチキチキボーンを食べれば、いつでもあの頃に戻れるほどだ。
惣菜で夕食を済ませたって良いのだ。ただその中に1品、自分で作れる何かが入っていれば良い。味噌汁も顆粒の出汁と味噌を溶かして出すだけで十分で、その味付けは必ず子どもは覚えてくれている。
食事・睡眠・排泄は、幸福な生涯を送るために必要不可欠な要素だ。この3要素は常に循環し、サイクルの始まりともいえる食事の質を上げることは、より良質なサイクルを生むことになり、私が勤める児童養護施設の子ども達には特に必要な支援となっている。
大好きな人が美味しい料理を作ってくれる。これほど幸福なことがあろうか。全ての子ども達に提供されることを願うばかりである。