最近は私の周りで、キャンプや野遊びをしたいという人が増えてきた。
よくお世話になっているキャンプ場もここ数年は賑わいを見せ、どちらかといえば田舎地域に居住する私は、原油と複合材料で形成された都市群のストレスと、自然の発するヒーリング効果の絶大さを実感している。
とはいえ、登山の世界は肌感ではそんなに変化は見られない。沢登りにおいては、綺麗なウェアに身を包みキャッキャウフフと水浴びをする女性の姿は皆無であり、吸血ヒルに吸われようとも行軍し「沢にいるんだから洗濯してるのと一緒でしょ」と、服と身体を数日間洗うことをせず「街に出るから流石に・・」と、半ば仕方なく風呂に入る様な、人の皮を被った動物といえる人種しか相変わらず見かけない。
焚火においても「見つめている時間が至福」というのが昨今のキャンプブームにおける焚火の魅力であるが、こと登山中においては、確かに焚火のために渓谷に入ることもあるのだが、濡れた尻を焚火に当て「こりゃぁあったけぇな」と座薬を入れる為に尻を妻に突き出すが如くの姿勢で保温と乾燥を行うためなのであり、「でっかいお肉」を広告宣伝にでも使えそうな絵面で美味しく頂くのではなく、沢の途中で捕獲したヒキガエルやキノコ、渓流魚、もしくは残置された加工食品を、サササッと調理するための焚火である。
沢で安全な場所で野営する際には酒もしこたま飲む。焚火で燻した渓流魚で作る骨酒は格別なのだが、魚が骨身になるまでは、男達がベロベロにしゃぶり尽くした魚で作るため、もはや衛生環境や絵面だけでいえば「地獄絵図」なのだが、気にしたことは一度もない。
昨今のアウトドアブームにおける人口増や焚火ブームは、登山をする私には影響が薄いというのは書いたとおりであるが、世の中ではそうではないらしい。
河川では燃えきらなかった薪が残り、キャンプ場で持ち込んだ荷物を燃やし、燃えやすいものがある環境下で焚火をしたために延焼騒ぎになったニュースもある。
こうした事例に対処するべく、キャンプ場では直火による焚火が禁止となったところもある。その内さらなる規制がかかる事もあるかもしれない。
そもそも、何故こうした焚火による問題が増えているのか。
ひとつはユーザー人口の増加である。キャンプ人口は10年前と比較して100万人ほど増加しており、マナー違反者が増えて問題が顕著になるのは、ある意味自然な流れである。
もうひとつは、新型コロナウイルスによる自粛規制だ。閉鎖環境から飛び出して野遊びをしたいというのは納得だが、知識なくとりあえず道具を揃えてみたものの、使い方や自然と共生していくためのマナーというところまでの準備には至らなかったことが考えられる。
最後に、SNSユーザーの増加だろう。絵力が抜群なキャンプと焚火は、エゴイズム全開の知識なしでフィールドに入る人が増えた一因だ。
こうした要因を最も危惧しているのが、今日まで自然と親しんできたアウトドアユーザーである。私もその一人であるが、特に頭を悩ませているのはキャンプをメインにする人達だ。利用が制限されるというドライな見方もあるが、自分達が大切にしてきたフィールドが一瞬にして荒らされていく時の心情は、想像するに容易い。
さらに危惧するのが「体験」という場が減少していくこだと最近よく感じる。ネット環境の普及は、人に新たな記憶を増やし、膨大な知識をデバイスを通して与える事となったが、ネットワークで対応できないのは「生の体験」である。「犬の毛の触り心地」とネットで記載があっても、実際に触った体験と一致させることが必要であり、この体験が脳に最も刺激的な記憶として残り「自分だけの知識」となる。最近はレビューやイイねで、他人の意見や知識が自分のものの様に誤認してしまうことが、多様性が認められ、また求められている社会における問題だが、キャンプ場における焚火を始めとした自然での体験は、こうした多様性を獲得していくための大事な環境である。
こうした体験とフィールド、人間との共生という問題をクリアするために必要なのは、果たして何だろうか。
火の取り扱いや自然との関わりを幼少期から深める「体験」、それを後世へ繋げるための「伝承」、今ある「環境」を見直す、人が人に下す「規制」(あんまりしたくない)。きっと考えれば沢山の方法があり、今この時をそれを実践されている個人や団体、企業はある。決して何もしていないわけではないだろう。
とはいえ、これまで資本主義という大きな流れを急成長させ、文明を発展させてきた現代社会の歪みが出てきたのかと思うと、人のエゴの副産物が、こうした焚火問題となったことを認める必要があるとも感じる。
とはいえ、登山の世界は肌感ではそんなに変化は見られない。沢登りにおいては、綺麗なウェアに身を包みキャッキャウフフと水浴びをする女性の姿は皆無であり、吸血ヒルに吸われようとも行軍し「沢にいるんだから洗濯してるのと一緒でしょ」と、服と身体を数日間洗うことをせず「街に出るから流石に・・」と、半ば仕方なく風呂に入る様な、人の皮を被った動物といえる人種しか相変わらず見かけない。
焚火においても「見つめている時間が至福」というのが昨今のキャンプブームにおける焚火の魅力であるが、こと登山中においては、確かに焚火のために渓谷に入ることもあるのだが、濡れた尻を焚火に当て「こりゃぁあったけぇな」と座薬を入れる為に尻を妻に突き出すが如くの姿勢で保温と乾燥を行うためなのであり、「でっかいお肉」を広告宣伝にでも使えそうな絵面で美味しく頂くのではなく、沢の途中で捕獲したヒキガエルやキノコ、渓流魚、もしくは残置された加工食品を、サササッと調理するための焚火である。
沢で安全な場所で野営する際には酒もしこたま飲む。焚火で燻した渓流魚で作る骨酒は格別なのだが、魚が骨身になるまでは、男達がベロベロにしゃぶり尽くした魚で作るため、もはや衛生環境や絵面だけでいえば「地獄絵図」なのだが、気にしたことは一度もない。
昨今のアウトドアブームにおける人口増や焚火ブームは、登山をする私には影響が薄いというのは書いたとおりであるが、世の中ではそうではないらしい。
河川では燃えきらなかった薪が残り、キャンプ場で持ち込んだ荷物を燃やし、燃えやすいものがある環境下で焚火をしたために延焼騒ぎになったニュースもある。
こうした事例に対処するべく、キャンプ場では直火による焚火が禁止となったところもある。その内さらなる規制がかかる事もあるかもしれない。
そもそも、何故こうした焚火による問題が増えているのか。
ひとつはユーザー人口の増加である。キャンプ人口は10年前と比較して100万人ほど増加しており、マナー違反者が増えて問題が顕著になるのは、ある意味自然な流れである。
もうひとつは、新型コロナウイルスによる自粛規制だ。閉鎖環境から飛び出して野遊びをしたいというのは納得だが、知識なくとりあえず道具を揃えてみたものの、使い方や自然と共生していくためのマナーというところまでの準備には至らなかったことが考えられる。
最後に、SNSユーザーの増加だろう。絵力が抜群なキャンプと焚火は、エゴイズム全開の知識なしでフィールドに入る人が増えた一因だ。
こうした要因を最も危惧しているのが、今日まで自然と親しんできたアウトドアユーザーである。私もその一人であるが、特に頭を悩ませているのはキャンプをメインにする人達だ。利用が制限されるというドライな見方もあるが、自分達が大切にしてきたフィールドが一瞬にして荒らされていく時の心情は、想像するに容易い。
さらに危惧するのが「体験」という場が減少していくこだと最近よく感じる。ネット環境の普及は、人に新たな記憶を増やし、膨大な知識をデバイスを通して与える事となったが、ネットワークで対応できないのは「生の体験」である。「犬の毛の触り心地」とネットで記載があっても、実際に触った体験と一致させることが必要であり、この体験が脳に最も刺激的な記憶として残り「自分だけの知識」となる。最近はレビューやイイねで、他人の意見や知識が自分のものの様に誤認してしまうことが、多様性が認められ、また求められている社会における問題だが、キャンプ場における焚火を始めとした自然での体験は、こうした多様性を獲得していくための大事な環境である。
こうした体験とフィールド、人間との共生という問題をクリアするために必要なのは、果たして何だろうか。
火の取り扱いや自然との関わりを幼少期から深める「体験」、それを後世へ繋げるための「伝承」、今ある「環境」を見直す、人が人に下す「規制」(あんまりしたくない)。きっと考えれば沢山の方法があり、今この時をそれを実践されている個人や団体、企業はある。決して何もしていないわけではないだろう。
とはいえ、これまで資本主義という大きな流れを急成長させ、文明を発展させてきた現代社会の歪みが出てきたのかと思うと、人のエゴの副産物が、こうした焚火問題となったことを認める必要があるとも感じる。