最近、私のスマートフォンにある記事が出現するようになった。「少年革命家ゆたぼん」である。

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特段、彼の事を気にしたことはなく、ルフィ以外に麦わら帽子を被る人がいるのか、などとくだらない事が脳裏をリニア並みに通り過ぎるくらいだったが、気まぐれに画面をタップし、記事を読んでみた。

ネットのコメントには「学校行ってないのに学校批判をするのか」「明るい未来が想像できない」「井の中の蛙」などの辛辣な言葉が、無限マシンガンの如く打ち込まれている。

私がゆたぼんであれば、こんな言葉を浴びせられようものなら気が狂いそうになるが、それでも活動を続けるゆたぼん。調べていたら、ゆたぼんを通して見える社会の闇が垣間見えてきたので、書き残しておこうと思う。


そもそもゆたぼんとは何者なのか

2008年生まれの中学生。宿題をしていなかったことで担任の教諭とトラブルが起き、そのことが不登校になったという。

動画サイト、You Tubeに投稿しており、現時点でチャンネル登録者数は15.1万人、597本の動画を上げているYouTuberである。父は活動家、著述家の中村幸也氏。


動画では著名人とのコラボから挑戦モノまで投稿され、最近ではクラウドファンディングサイトCAMPFIREにて、プロジェクト「ゆたぼんスタディ号で日本一周して日本中の人に元気と勇気を届けたい!」をスタートし、約487万円の支援を獲得している。


不登校をきっかけに多様な活動を続けているゆたぼん。そんなゆたぼんを調べていると、彼のことが心配でならない。

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それは彼と、彼を取り巻く大人の関係であり、未成熟な人間であることから来る気持ちだ。

不登校の当事者であり、その看板と「不登校は不幸じゃない」「子供は学校に行く権利はあるけど義務はない」などのコメントにより影響力が大きく、多くのメディアに取り上げられているのだが、動画を調べれば調べるほど、そこに見えるのは搾取する側とされる側、ビジネスの本質を見失った関係が見えてくる。

動画を見ていると、聞こえの良い言葉、一見して正論を並べる姿は、彼が少年革命家を自称するに足るものであるとも見て取れる。学校は集団であり、教師と生徒、規則とモラルの世界である。時に理不尽が起き、その理不尽に立ち向かうには、いくら情報が並列化され、すぐに分散される現代になったとはいえ、イチ生徒では力不足だ。環境適応が難しければ逃げるというのは本能であり、決して否定されるものではない、学校を離れ、不登校を選択するのも個人的には納得できる。

私が気になるのは、彼が動画上で悩むこと無く意思を貫いている点だ。

人には強い意思がある。それは人生という長い経験で悩み苦しんだ先に見る悟りであり、時に道を逸れる時もあるが、その様な過程を経て人が形作られていく。

ゆたぼんは真っすぐで悩まない。十数年という人生経験では不相応なほどに。そして、軽く感じる。

「自由に生きよう」なんとも開放感のあるフレーズは、何度か動画内でゆたぼんが口にしている。多くの人がそう願い、今の閉塞的と思われる世界から飛び出したいと思っていることから、この言葉を口にできることは魅力的に見える。

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では、自由とは何なのか

私は休みの日は山に入っている。時には登山道を使わず、地形図を見て道なき道を登り、見たことのない景色に出会う。それは誰の束縛を得ること無く、自らが選択した自由であり、自由から得たものは他には代えがたい、自分を構成する一部になる。

登山における自由は、選択することから始まる。

山に登ること、それ自体は義務ではない。山に登る動機から、山に登るか否か、どの山に登るか、どんな道具を持っていくか、日時は?頂上までのルートは?その全てが自由である。

だから登山計画書は美しい。考えに考え、悩みに悩み抜いた至極のルートは、その人だけの作品だ。誰かの意思が入る余地のない登山計画書は、計画者の人格そのものである。そして登頂を果たす瞬間は、その景色だけでは収まらない、登頂までの時間が一気に押し寄せ、全てを肯定する時間が訪れるのだから、登山は止められないのだ。

そんな登山にしばしば出る単語がある。「自己責任」だ。

登山では切り離せない遭難というリスクは、山をやっていれば誰もが遭遇する。道を見失った、行動不能となる怪我をした、雪崩に遭った、野生動物に襲われた。遭難救助に関する各種保険は昔より充実し、万が一、誰かに助けてもらえる可能性は高くなったが、「自分がリスクを承知で選択した登山。」「自分のことは自分でやり遂げる」という、登山の根底にある自己責任は、登山者にとっては耳にタコが出来るほどの常識なのだ。

この自己責任を負い、リスクと天秤にかけて挑む登山家は、社会の経済活動の一部と成り果てた私を含む人たちには、万物の何よりも光り輝く巨星である。その一言には象の一踏みより重みがあり、マイク・タイソンの右アッパーより強烈だ。

責任を一手に負って自由を得る。これは登山のみならず社会の常識であろう。

ゆたぼんはどうだろうか。

放つ言葉は正論である。「おかしいことをおかしいと言えないのがおかしい」私もその考えには同意だ。そうして変わらない社会のもどかしさを痛いほどに知っている。

しかし、彼の言葉は軽い。象に噛みつく一匹の蟻の様に軽い。

それは当然だ。私には彼が自らの発言の全てに責任を負っているようには思えない。悩み、苦しんでいることも過去の動画を見ると感じるが、真っ直ぐ言い切るには、人生の経験、負っている責任を重さは、私が知る人よりも軽い。言い切るには、それ相応の覚悟がいる。彼は、その言葉の重みを理解しているのだろうか。

そして、悩まない

最近は何かと右向け右的な言葉が流行っている。短文で意思を示すにはその方が手っ取り早いし、巻き込める。私はもう少し考えさせるフレーズが好きだし、一直線に答えを示す人というのも、どうも胡散臭い。SNSが浸透された今の社会で、これを変えていくのは至難の業だ。

人は迷う。どの道が正解なのか、どの道具が一番効果的なのか、登山においても迷うことは珍しいことではない。答えを導くには迷ったり思考することが避けられない。条件反射で出ることもあるが、時が経てば常識は常識でなくなり、また考える時がやってくる。

ここまで迷わない表現を行うゆたぼん。編集でイメージは変わるのだろうが、迷わない中学生というのは、私にはとても危うく見え、まるで切り立った岩峰を歩いているかのようだ。


自らの意思で選んでいるように見えて、多くの意思が介入しているゆたぼんの動画、そして本人を見ていると心配でならないのは、この危なっかしい岩峰を後戻りせず、ロープ無しで登っている点である。

ロープがあるということは、その先には誰かがいる。その安心感は絶大だ。誰かゆたぼんを救えるのだろうか。

既に引き返すラインを超えてしまっているようにも思えるゆたぼんの行動は、かつて七大陸最高峰全山無酸素単独登頂を成し遂げようとしていた登山者、栗城史多氏を彷彿とさせる。

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栗城氏は2018年5月21日、世界最高峰エベレストの頂きを目指し、滑落死した。

「冒険の共有」そんな言葉を背負って山の世界の恐怖と美しさを届ける栗城氏は、今では当たり前となった登山動画の共有という点で有名な人物だ。

氏の生前の姿を思わせる書籍は幾つかあり、私も読んだことがある。

彼が死の直前に登っていた山はエベレストの南西壁ルート。この何気ない南西壁という3文字は、当時指を失い、実力も名だたる登山家に遠く及ばない栗城氏が口にするには無謀とも言えるルートだ。一般的なルートで登ると言っていたのを突如撤回し、最も難しいルートとも言える南西壁を登ると言った。夢枕獏氏の作品「エベレスト 神々の山嶺」でも取り扱われたこともあり、その壁の困難さを感覚的に知っていた身としては、栗城氏の発言がいかに無謀で「死にに行くようなもの」であることが良く分かった。

死後、多くのエピソードを残している栗城氏。彼自身の問題は多分にあり、抱える想いは映像では分からないほどに満ち満ちていたが、一方で注目されたのは、メディアである。

「既に引き返せない事態になっていたのでは」「無謀な登山を応援してきたメディアの罪は重い」などといった言葉が並ぶ。

メディアであろうが身内であろうが、誰か彼を止められなかったのか。これが栗城氏が遺したもののひとつであった。



そんな悲しい最期を遂げた栗城氏に、私はゆたぼんを重ねてしまう。



私が働く児童養護施設では、ゆたぼんと同じ世代の子ども達が生活している。一見して「どこにでもいる子」に見えても、大きなキズとトラウマを抱え、懸命に生きようとする子達の、おこがましいながらもケアをするのが私の仕事だ。

もちろん、不登校気味の子どももいて、ゆたぼんの様に変わらない世界への嘆きを訴える子がいる。

私はそんな子どもに、悩み考え、決断していく働きかけを意識している。

逃げることが悪ではない、逃げ続けていく先に待つのは不幸であると考えるのは、私の人生経験で得た教訓だ。時に「こうしなさい」と言うこともなく「どうしたいのか」を常に求める私の姿勢は、子ども達には小煩い白髪交じりの不潔男の小言なのだが、それでも伝え続けることが私の責任である。

子どもが悩み苦しんだ末に導き出した答えを全力で支える。それが大人というものだが、ゆたぼんの周りにそんな大人がどれほどいるのだろうか。

彼が不登校という看板を背負えるのは、あと数年だ。その時にどんな大人が彼を支え、全力で応援できるのだろうか。価値の無くなった素材に誰が投資をするのか、それはかれのクラウドファンディングに投資した、ある100万円の投資者のコメントがその答えだ。今この時期に出来ることは、社会や大人、自分を構成する部品と、自分という本体をマッチングさせていく作業だ。時に手を滑らせて落ちることはある。でも繋がれているロープがある限り、そのロープはゆたぼんを助けるだろう。ロープ無しで社会というエベレストに挑み、最難関のルートを行く行為は、誰かが止めなくてはならない。そんな気がする。

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初め、ゆたぼんを調べ始めた時は、こんな絵に描いたような子がいるのかとも、ユフィの麦わら帽子の印象の後に抱いたが、大人が構成する学校という社会に抗っているのに、その大人に搾取され、傀儡の働きをしている矛盾は、社会の闇そのものである。

彼に会えるのなら、会って話を聞いてみたい。どうでも良いことでもなんでも、彼自身を知れる事を聞いてみたい。

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